ゆるやかにはじまる。








スイッチ







小さく笑う渋沢に知らず言葉が出ていた。
「そんなことはないだろう」
きょとんとして、よく言われるよりも随分と幼い表情をすると思っていると
「ありがとう」
酷く嬉しそうな声で破顔していた。
その時から、少し、俺は 狂わされている。



 休日に特にこれといって用事もなく、連れ立って出かける。
 前はこんなことなかったと思って、不破は微かに表情を変えた。
「どうかしたのか」
 穏やかな笑みを浮かべているのが常である渋沢は、今日も例外ではなかったが、不破の調べから見ると少し、機嫌がいい部類になりそうである。
「いや。ただ、前はこうして特にこれといった目的もなく外出することはなかったと思っていただけだ」
 思ったままに言う不破に、渋沢はちょっと驚いた顔でそうなのか、と言い、
「じゃあ、こうして休日に付き合わせて迷惑だったんじゃないのか?」
今度は少し慌てて問う。少し困ったような、焦ったような表情が表れるのを見ながら不破は一言否定した。
「迷惑ならば迷惑だと言う。それに、そうならばお前の誘いを断っている。安心しろ」
 言いながらも心に立つ波のような感情に首を傾げる。
 不破は迷惑なら年齢の上下に関わらず間違いなく己がそうすると知っている。だが、渋沢から連絡を受けたときに休む予定を覆した。迷惑ではなかったが、付き合わなければならなかったわけではない。事実、渋沢は誘うときに断っていいと言っている。迷惑でなかったら、と付いた言葉はとても遠慮気味だった。そうでありながら、敢えて受けた自分が不破にはわからなかった。そのときに感じた感情も。
 渋沢は不破の返事に不破ならそう言うな、と微笑んでいた。それから店のウィンドウを見て僅かに歩調が遅くなる。
「?なんだ?その服が欲しいのか?」
 目聡く見とめた不破に渋沢は今度は苦笑した。
「いや、違うよ。ただ、前に藤代が同じ感じの色のこんな感じの服を見たときに俺に似合いそうだと言ったことがあって。だが、暖色の橙は寧ろ藤代のほうが似合うと思わないか?」
 品を前に足を止め、はじめは服を見ていたものの、きちんと不破を見て言う渋沢に、しかし不破は目をくれず、
「藤代とも最近この辺りに来たのか?」
いつもと同じようにぶっきらぼうに言い放つ。不破は件の服を見ていた。
「来てないぞ。言っただろう?似た感じのだよ。藤代が部屋に雑誌を持ってきて、いきなり言ったんだ」
 不破のその様子に不思議そうに首を傾げたが、そのときのことを思い出したのか渋沢は優しい表情を浮かべた。
 黙ってしまった不破を心持覗き込むように見ると、まるで親の敵でも見るような目でその服を見ていた。
ガシッ。
 そんな音が聞こえるんじゃないかというほどにしっかりと、しかも唐突に不破は渋沢の腕を摑むと店の中に引き摺って行く。当然ながら説明はなしだ。
「ふ、不破…?」
 当惑しつつも抵抗もせず店に入ると不破は例の服の深い緑色のものをとって渋沢に渡し、試着室前に連れて行く。渋沢がちゃんと付いて来るので今度は手を摑みはしなかった。
「これを着ればいいのか?」
 両手で服を抱えるような状態で不破を見る渋沢に、こっくりと頷いた。
「?じゃあ、少し待っていてくれ」
 わけのわからないまま大人しく従った渋沢が試着室内に入ると、不破は腕を組んで待つ。この間、表情が一切動かない。店員が様子を窺っているかといえばそんなこともなく、不破はそこそこの態度だな、などと評価をつけていた。
「着たぞ?」
 しゃっとカーテンを開けて姿を現した渋沢を一瞥して、渋沢を中に押しながらも自分も一歩試着室に踏み込む。後ろ手に握ったカーテンを閉めるのも忘れない。
「不破っ。靴…」
 触れ合わせるだけの、でも羽のようと表現するにはしっかりと合わせるキスをして、不破はそこから出た。
「よく似合っている。脱げ」
 赤くなって口元を覆った渋沢に少し笑いかけてカーテンを引いた。

 言われたとおり元の服に着替え直した渋沢が出てくると、服を受け取りレジにまっすぐに向かう。さっさと精算を済ませ、外に出て行く不破を渋沢は慌てて後を追った。
 人通りの殆どない公園まで来て不破はくるりと振り向く。その手に先程の店で包まれた服を見て渋沢は意味もなく焦った。
「お前のだ」
 不破の持味ともいえる唐突さは再び発揮されて紙袋を押し付けた。反射的に受け取った渋沢が何事か言うより先に話し始める。
「以前、お前はずっとを願うのは傲慢だろうかと言った」
 渋沢はそれに少し遠くを見るようにして、ああと答えた。
「俺はそんなことはないだろうと返した」
 覚えているよと渋沢は言う。
「その後、お前は酷く嬉しそうに笑って礼を言ったが、俺はそれからどうも変だ。お前のことが妙に気になる。今日も休みを取ろうと思っていたのにこうしてお前といる」
 渋沢はただ驚いたように聞いている。
「お前は俺にずっとを願うのは傲慢だろうかと訊いたが、俺は、お前がずっと俺の傍にいるのを願うのは贅沢だろうかと訊きたい」
 渋沢はあの時と同じように酷く嬉しそうに破顔する。
「そんなことはないと思うぞ」
 不破はそれを聞いて笑い返した。



   おまけ
「そういえば、不破。どうしてお店であんなことをしたんだ?」
 照れて赤くなりつつも問う渋沢に、
「別に。ただ俺といて他の奴を思い出されて少し、何故だか腹が立った。その服で藤代を思い出すと言うからあれをすれば俺を思い出すようになるだろうと思ったまでだ」
 平然と不破は答えた。それを聞いて更に赤くなって俯いた渋沢を間近で覗き込んだ不破に矢張りまた、渋沢の体温ネツは上がる。
「……不破。それは…」
 軽く首を傾げる自覚皆無の不破に渋沢はそれ以上言えず、なんでもないと濁し、折角もらった服も暫くは着れそうにないと思うのだった。
 突如思い出すほうが免疫がない分大変だと言うことに気づくのは当然、もう少し後の話である。