最大級の感謝を、今日という日に。






澄める月






 欲しいものがそう幾つもないと知ったのは、つい、先頃のこと。


 起き抜けにぐっと体を伸ばし、再び眠気に誘われないように、さっさとベッドから抜け出した。
 お役目を果たせなかった目覚まし時計のベルをoffにして、渋沢はタオルを持って廊下に出て行く。顔を洗いに行くのだ。
 水音が先客の存在を知らしめていたが、この松葉寮内で渋沢が会わないようにしようと思う相手はいなかった。
「よぉ。相変わらず早いな」
 キュッと蛇口を締めた音がして背中を向けている先客が鏡を通して渋沢と目を合わせた。渋沢は声の主に驚きの声を上げる。こんな早朝から起きていることに最も似合わない奴である。
 渋沢は一瞬目覚まし時計が遅れている可能性を思ったが、洗面室に掛けてある時計も渋沢が見た目覚まし時計より数分進んだ時を指していた。数分のずれはここに来るまでの差であるから時計は正しいことになる。
「三上?」
 それでも不思議で語尾を微妙に上げて呼ぶと、それに気付いた三上はぱたぱたと前髪から水を滴らせたまま、垂れ気味の目を細めて笑みをつくった。
「何?俺が誰だかわかんねぇの?それとも忘れた?渋沢ってば」
 薄情者、と続けて、三上は額に張り付く濡れた濡れ羽色の髪を掻き上げた。顔を拭こうとして漸くタオルを忘れたことに気づき、舌打ち一つで思考を切り替えると、三上がそのまま服の裾で拭こうとするのを渋沢は止めた。
「俺が薄情者なんじゃなくて日頃の行動から考えられないことをした三上が悪いんだろう?タオル使っていいぞ」
 三上の手に渋沢は忘れなかった持参タオルを渡して、今度は渋沢が水を出す方へ蛇口を捻る。朝の冷たい水を大きい掌にいっぱいに溜めて顔を洗う。
 起きたばかりの、まだ眠りを欲する意識が完全に覚醒するのはこの瞬間だと渋沢はいつも思う。
 一方、渋沢の台詞に軽く肩を竦めた程度の三上は、手渡されたタオルを遠慮なく借りた。いくらいい男とは言えども、たとえ顔だけとはいえいつまでも本当に水を滴らせておく必要はないのだ。
「三上」
 顔は下に向けて、重力に従う水を洗面台の中に落としながら渋沢は片手を三上に差し出す。要求するその手の意味は明らかで、一言「サンキュ」と礼を述べつつ三上はタオルを渋沢に返した。
 首筋から襟周りまで洗う渋沢は、一通り拭いても濡れている感が薄れない。要するにどこか艶があるのだ。天然の本人に全く自覚がないことだけが何事にも欠点のない渋沢の唯一の欠点だというのが三上の認識だ。
 流石に髪の水分では拭き取れるものではなく、僅かな湿り気を帯びて肌に纏わり付く。渋沢の明るい栗色の髪が項に張り付いているのを見て、くつりと三上は喉で笑った。
 洗面台に寄りかかって待っていた三上は、ひょいと身を離した。前傾姿勢でいる渋沢が体を起こす前に首に手を回す。
「三上?」
 ぐいと引かれて渋沢は瞬いた。
「ん…」
 はじめは触れ合わせるだけのキスを何度も交わすうちに深いものに変えて、分け合えるような貪り合うような長いキスをして離れた。二人を繋ぐ銀糸を三上が舌で舐め取る。
 上気した頬と上がった息がおさまった渋沢が何事か言う前に三上は口を開いた。
「Happy Birthday」
 渋沢の出鼻を挫くように、低めの声で三上は先手を打つ。
 ぴたりと目を合わせたまま、渋沢は数回瞬いた。明らかにわかっていない顔がふと気付いたように目を瞠る。
「そうか。今日だったか。三上は覚えていたのか」
「まぁな。去年は凄かったしな」
 照れか、それとなく三上は視線を渋沢から逸らせ、小さく肩を竦めてみせた。渋沢も去年のその様子を思い出したのか嫌そうな表情を見せた。彼のこんな顔は本当に珍しい。



 去年の渋沢の誕生日。それはある意味、いや、確かに地獄のような日だった。
 例年通りの暑い夏の日に練習の励むサッカー部員の声とせみの声。それに付加された女子の黄色い声がひっきりなしに上がっていた。その声の大きさと多さは監督やコーチ、渋沢の指示の声を簡単に呑み消してしまう。コートを守るように張り巡らせられたフェンスに鈴なりに群がる女子。あの日ほどフェンスの存在に感謝したことはないと皆が言う。怒れる監督の怒声にもギャラリーは減らず、めげず、渋沢の一挙一動に声が上がった。監督の怒声に一番怯えていたのはサッカー部に在籍していた面々である。
 かろうじて、フェンスの内側には入ってこられないからいいものの、休憩ともなれば渋沢が出てくるのを出入り口で待ち構える。渋沢本人は出られるわけもなく、他の部員ですらフェンスから出るのを躊躇う始末。
 あまつさえ練習を再開すれば、暑さにやられたのか、声を上げすぎたのか、倒れる女子が続出した。はっきり言って練習どころではない。とうとう我慢ならなくなった監督がミーティングを理由に渋沢をコートから連れ出し、監督が一人で戻ってくるにあたって漸く女子たちは波が引くようにいなくなった。その日は結局サッカー部の練習自体それを機に終了となったのだが。監督が渋沢をあのまま車で寮に送ったこともあって、三上に部の戸締りと笠井に渋沢の荷物が渡された。なぜ笠井にかと言えば、三上だと例の女子らが監視しているのではないかと危ぶまれたからである。この日の渋沢の特別待遇に、日頃から突っかかることしか能のない当時の3年が何故か何も言わなかったことが在学するサッカー部員の謎として残っている。
 ついでだが、渋沢が1年のときは流石に1年から騒いだのではまずかろうと、彼のことを慮ってファンの方の自粛があった。同時に寮の方には行かないという不文律もあるらしい。
 更に三上の誕生日の冬の日にもこれと同じことが起きたことを明記しておこう。ただし、こちらの場合は翌日に風邪で休む女子生徒が多発したらしい。何故、らしいという曖昧な表現なのかといえばここ武蔵森中学校は男女で校舎も何も別だからである。
 更に蛇足的追加事項だが、サッカー中はよいエースでも普段は単なるお調子者の駄犬なトラベルメーカーの誕生日は元旦なので流石のサッカー部にも影響はなかった。─────閑話休題。



 何はともあれ、過去の経験を活かして本日のサッカー部は休みである。ついでに渋沢は監督命令で住所は伏せられて広まっている、そう遠くないところにあるという実家に帰っているという実しやかな嘘が流れていた。去年プレゼントを下さった方もそうではない方もサッカーの応援だけで結構です、とこれは本人の言葉と共に。
「で、お前本当は何が欲しいわけ?」
 気分をとりなすように三上はそう問いかけた。前後関係のなってない話し方だが、それに困るような付き合い方はしていない。はずだ。けれど、渋沢は首を傾げて説明の続きを促した。これを見る限り、やはりこの二人はちゃんとわかっているのだろう。
「誕生日。俺プレゼント買ってねぇからお前の欲しいものやるよ。何が欲しい?」
 本人を目の前に堂々と言い放つものではない言葉である。まだ、早朝。半日くらい使えばプレゼントのひとつくらい見つけられそうなものだが、それを放棄して三上はさっさと本人に訊いていた。もっとも、貰った本人が喜ぶもの、というコンセプトなら驚かすことができなくともこの方が確実なことは間違いなしではある。 「月、が見たいかな」
 そして、渋沢の応えもどこかピントがずれていた。この質問の場合大概において買って欲しいものや聞き入れて欲しい要望を言うものであると思われるのだが。
「じゃ、行くか」
 だが、三上が不審にする素振りはなく、何でもないこと、あるいは当然のことのように言った。確かにプレゼントを訊いた三上にとって渋沢の応えはおかしくなかったのだろう。彼にとっては。
「何処にだ?」
 歩き始めた三上のあとを素直についていきながら渋沢が三上に問うと、三上は答えを言わないものの渋沢を振り返ると右手で天井を指した。
「月、見せてやるよ」


 着いたのは当然というか、やはりというか立ち入り禁止のはずの松葉寮の屋上である。鍵が掛かっているはずなのだが、三上がさらっと開けてしまった。
 夏も7月がもう数日で終わるという日である今日は、冬ならまだほんのりと暗い時間であってもしっかりと太陽が昇っていた。
 空は澄んだ水色が広がっている。屋上に上がっても尚高い空の一方向に目を向けて、三上はほらと笑ってみせた。
「朝、早いからな。流石にまだ見える」
 渋沢と三上が並んで目を向けているそこには薄ぼんやりと皓い光を放つ月が浮かんでいる。透き通った空に住む月が太陽の光に実体を失うように霞みながらも確かにその姿を見せていた。
「まさか三上が朝の月を見せるなんて思わなかった。夜まで待てとか言うと思ったんだがな。でも、三上が早起きしてくれてよかった」
 ほんわりと笑う渋沢に三上が少しばかり悩むようにしたと思うと、「ま、いっか」などと呟いた。
「あー。わり。実は起きたわけじゃねぇんだ。貫徹だから」
 あまり悪く思ってなさそうな三上の言葉に驚いたのは渋沢である。三上は確かに宵っ張りだが、たとえ僅かでも一日のうちに睡眠はとるようにしているのだ。
「貫徹!?」
「ああ。お前と同じだけ起きてりゃ欲しいもんやりやすいだろ?寝るとどうしても早くに起きられないしな」
 さらりと三上は言ってのけた。その言葉の意味は渋沢の為に起きていたと言っている。ここに誰かギャラリーでもいたら、あまりの告白っぷりに倒れているかもしれない。
 渋沢は沈黙してしまった。恥ずかしかったのである。三上は普段本心を曝すのを嫌がるわりには言葉が本心である所為か特に何も思うところがないようだが、渋沢はそうはいかない。赤面しないように抑えるので精一杯だ。
 その沈黙を勘違いしたのか、三上は考えるように言った。
「手軽すぎたか?」
 自分の考えは手軽すぎたか、と。
 何かと三上に天然だと思われている渋沢もこのときばかりは三上の評価の欄にひとつ付け足しをしていた。曰く、三上は天性なのだ、と。
「三上、戻ろう」
 渋沢は唐突に言うと三上の腕を掴んで階下に向かい出している。特に反対意見があるわけでもない三上は渋沢の行動するままに任せて腕を引かれた。
 そして部屋に入り、自分のベッドに座った渋沢は三上に言い放ったのである。
「三上、寝よう」
「はぁ!?おまっ、起きたばっかだろ」
 呆れた声で言い返す三上に渋沢は首肯した。持っていたタオルを机の上において渋沢は更に言った。
「いいんだ。凄く、甘やかしたいんだ。一緒に寝よう」
「お前が俺を甘やかしてどうするんだよ。逆だろうが、普通は」
 現に三上は渋沢を甘やかす態勢でいたのだ。貫徹してみるほどには。
「俺はいつも甘えているから今日は甘やかしたいんだ」
「お前、いつもバカ代とか甘やかしてんだろ」
「三上を甘やかしたいんだ。というより、甘えて欲しいんだ」
 それに三上が折れた。降参というように肩を竦めて渋沢の隣に腰を下ろし、渋沢が空けてくれたスペースに三上も一緒になって寝転ぶ。この暑い夏の日に広くもないベッドに並んで寝ようというのだから凄いことだ。
 もともと今日は渋沢のやりたいことは大体付き合ってやろうと決めていた三上である。この時点でプレゼントという名目で、三上はしっかりと渋沢を甘やかしているようだが。
 この二人、気付いていないようだが、ここに至るまでの会話は誰かが聞いていたらやはり倒れていたことだろう。お互いがお互いに甘やかしたいと言っていたのだ。何とも熱い。
「三上が俺の為にしてくれるということ全部嬉しいけど、一緒にいるだけでもプレゼントは十分だったりするんだ」
 触れる近さにいる相手に囁く声で渋沢は伝えた。
 太陽が出ている以上朝とはいえ暑いはずだし、部屋に冷房がないからやはり暑いはずなのに、不思議とそんなことは感じなかった。
「何。お前、俺がいるだけで幸せなら、お前365日が誕生日プレゼントだぜ。これからも」
 傍にいると伝えて三上は目を閉じる。やはり貫徹は堪えるらしく、三上はそれからすぐに眠りの淵に沈んでしまった。
 上手く渋沢を翻弄する男は無心に眠っているように見えた。けれど、三上はやはり上手で傍にいるという証明のように渋沢の手を握っていた。


 欲しいものなんて幾つもない。だから、彼といる時間が続きますように。





                     Fin
 はい。そんなわけで克朗さんの誕生日小説でした。けれど、相変わらず内容がないな…。本当に欲しいものはひとつなんですってことで。
 今年も無事にこの日を迎え、過ぎていくことに感謝を。
 来年もまたこの日を祝えるように祈りを込めて。
 HAPPY BIRTHDAY!克朗さん!





2003/07/29