ねじれの位置





ソラは雨が降り出す前の重そうな曇りだった。


 何をするでもなく見上げていた空から一滴、降りてくる。降り始めた雨を仰向いた顔に受けて渋沢はのろのろと顔を正面に戻した。
 空気中の汚れを一身に集めた、始めの雨。見た目は他と同じ透明であるのに、そのうちに宿す毒性は強い。このあたりに降る雨ならば、実際には毒といわれるほどのものではないだろう。それでも、工業の排ガスは体に悪く、酸性雨と呼ばれるのは木々を傷ませ、銅を徐々に溶かす。
 降り始めから強い雨に通り雨だろう、と渋沢は判断をつけた。そのうえで寮に帰る道を急ぎだす。普段の雨と違い、通り雨のほうが急に、そして一気に降る分性質が悪い。
 どうでもいいはずなのに、少しでも濡れる前に、と思い急ぐ。彼より早く、と。
 休日なのに近くの公園でぼんやりと佇んでいることになった原因の男きっかけを渋沢は思い出していた。



 渋沢にとって、随分と気を許して付き合える三上という存在がいつの間にだったか特別になっていた。それは言葉どおり本当に特別で、親友に対する情が本人すらも気づかぬ間に恋愛の情に移行していた。
 傍らにいられることも、いてくれることも酷く心地がよく、あまり他人を懐に入れない渋沢には、それを見るまで気づけなかったのだ。
 この想いこそが恋と呼ばれるものだ、と。
 あまりにもお約束といえばお約束な流れでの気づき方。お互いに女子から告白されることが多かったのだが、柔和な笑顔でそれでもきっぱり断る渋沢と、そのときの気分で遊びだと宣言してから付き合ったり、断ったりの三上。二人ともそういったことを話題に上らせることはなく、プライバシーに踏み込むようなことはしなかった。
 その日は、どんな気まぐれを起こしていたのか、今となってもわかりはしないが、渋沢はなぜだか授業をサボって校舎裏の陽だまりに向かっていた。
 見た瞬間は理解できていなかったと思う。何か、絵か映像かをただ見ているだけの状態だった。だが、視界から来たそれはしっかりと情報を記憶として残す。
 重なるように三上とその手前に小さく華奢な女の子。一度合わせられた唇が今度は深くしっかりと交わされて彼女の腕が三上の首に回る。
 情熱的にキスをしているはずの三上と渋沢の目が、そのときしっかりと合った。その瞬間、三上は何の未練もなく相手を放した。まだどこか酔ったような表情の彼女に渋沢の側まで歩いてきた三上はさらりと「あんた、もういい」と言い放つ。陶酔していた表情が言葉を理解して驚愕に変わると「サヨナラ、先輩」と甘ささえ感じ取れそうな声で告げて三上は渋沢の肩を軽く叩いた。
 三上はすでに先輩とやらに向けるものは一片もないらしく、ほんの僅かな逡巡の後、渋沢も三上の少し後ろを歩き出した。そのつもりはなかったとはいえ、見てしまったことに渋沢は少々居心地が悪かった。
「よかったのか」
 暫く迷った末に渋沢が問うと、三上は口端を上げて笑った。
「初めからアソビだって言ってあるぜ?」
 本気になったほうが悪いとは言わないけどな、とそう嘯く。
 その表情が酷く似合っていて、渋沢の心がどくり、と言う。
「そういえば彼女がいるときがあったな。全員、そうだったのか?」
「そ。どうせ本命は無理だからな」
 簡単に渋沢の言葉を認めながら続いた三上の言葉に今度は胸が痛んだ。
「お前が最初から無理だと割り切っているなんて珍しいな」
 何でもないようにそう言いながら、先程の高鳴りと痛みで渋沢は自分の心に気づく。本命と言う単語の奥にいる存在を渋沢は殺せるほどに怨嗟していた。
 親友と言うやさしく心地の良い言葉を隠れ蓑にして在り続けたのは、無自覚だった狂おしいまでの恋情だったのだ。
「そうでもないだろ。無駄だと思った努力なら俺はしねぇよ」
「そうなのか?三上は満足するまでどんなに遅くなっても練習するからてっきりそうだと思ったんだが」
 今までのように、ただ微笑ってなんでもないように振る舞う。
「そりゃ、どうにかなることだからだろ」
 あっさりと三上は言って、ドアノブに手をかける。ついて行くままに歩いて、屋上への道を辿っていた。
 開かれたドアの向こうの空は青く、出た後の空にはやけに雲が多かった。
 これからの己が酷い道化のように思え、それでもどうすることもできずに渋沢は三上に微笑いかけていた。

 僅かに濡れただけで部屋に帰れた渋沢が窓の外を見ると、雨でもう、見えなくなっていた。





 雨は、バケツをひっくり返したような、果た又、天の底が抜けたような降りになっていた。
 雨を避けられる場所に逃げ込むでもなく、その場に己が身を晒して冷たい雨に濡れるに任せていた。
 服も髪も重く濡れて肌に纏わりつく。その感触は酷く不快だったが、雨に濡れるのは好きだった。三上は痛いほどに強い雨の中、仰向くと開いていた目を閉じる。
 天から降り落ちる雨粒と、アスファルトにはじかれる雨粒と音が、三上を隠し、包んでいた。
 酷く、さっぱりとした気分だった。立ち込める雨の独特な匂いは嫌いではない。瞼や頬を打つ感覚にうっすらと笑うと唇の隙間から雨が伝い入る。
「まず…」
 毒に侵された水は不思議な甘さを孕んでいた。

 濡れそぼった体で三上が誰にも咎められずに寮の部屋の前まで来れたのは偶々誰にも会わなかったからだろう。髪や服から滴る水が床を濡らしもしたが、空調の利いている寮ならばすぐに乾く程度のものだ。
 冷たく濡れた体で、ふと、三上はドアを開けるのを躊躇った。理由はないのだが、強いて言うならば勘、だろうか。躊躇いはしたが、結局三上はさっさとドアを開けた。あまりじっと立っていると水溜りができて、寮母さんに掃除を言い渡されてしまう。
「三上?濡れたんじゃ…」
 ドアの開く音に反応したらしく、どこか嬉しそうな表情にも見える笑顔で渋沢は窓に向けていた顔を入り口に振り返らせた。
「濡れたな」
 怒るだろうと思いつつ三上が肯定してみせると、タオルが飛んできた。見事に顔面にヒットしたタオルを摑み、意識して口端が軽く引き攣った怒りを表すような顔を作る。
「渋沢~?」
「とりあえず拭け。それから着替えろ。服は適当でいいな?どうせ、もう外出しないんだろう?」
 対して、渋沢は表情のない声をにっこり笑顔で寄越した。こうなった渋沢には逆らうものではないと熟知してしまっていた三上はおとなしく言われたとおりの行動をとる。
 自分を視界から外した渋沢を見て、三上はゆるく笑う。
 簡単に、水が滴らない程度におざなりに髪の水を拭った。無意識にか、濡れきった三上を見た瞬間に暖房を入れてくれた渋沢に内心で感謝をする。
 水を吸って重たくなった挙句、張り付くという実に腹の立つ濡れた服を眉を顰めながら脱ぎ捨てる。勿論のこと、そうなったのは雨宿りをしなかった自分の所為だ、なんていうことは棚の上だ。
 出されていた室内着の黒のスウェットを身につけてみると、渋沢はおらず、濡れた服もない。どうやら渋沢が代わりに洗濯に行ってくれたらしいと思うころには戻ってきた。気の効く同室者はつくづくありがたい。もっともこれは何も渋沢が特出しているというわけではなく、三上自身だとて渋沢が何か優先していることがあった場合は何だかんだと言っても代わってやっているからこその彼の行動なのだが。それでも、日頃から渋沢の面倒見がいいというのは確かだ。
 手には中身の入った二つのコップを器用に片手で持っていて、もう少ししっかりと髪を拭いていた後を見つけて渋沢は目を細め、1つを三上に差し出した。受け取ったコップをそのまま口に持っていけば、覚えのある苦さで、ああ、やっぱりと思う。
 そう。やっぱりで。矢張り三上は己が溺れるように渋沢を好きなことに再確認させられる。こんな、なんでもない一瞬だというのに。あるいは、だからこそというべきかも知れないが。
 いつ好きになったのか。そんなことは知らないし、知りたいとも三上は思わない。ただ、いつの間にやら渋沢の隣に自分がいることが当たり前になって、自分以外が渋沢の傍にいることが許せないと思っていただけだ。
 そして、いつだって些細な日常の日々の中で、三上は自分が渋沢を好きなのだと、そう再確認させられる。
 埒もない思考の海を漂いながら、見るともなしに渋沢を見ていた三上は不意に眉を寄せた。
「お前、髪、濡れてねぇ?」
 眉を寄せたのと同様、不審げな声だった。だが、渋沢はそれに気にした風もない。
「俺もあったからな。お前がずぶ濡れになった通り雨に」
 振り返りもせずに言うのは本を読んでいる所為か。
「俺を愚図みてぇに言うんじゃねぇよ。いいんだよ、俺は。自分で雨ん中にいたんだから。お前こそ、外に出て降られたなら雨宿りぐらいしろ。常識だろ」
 少しばかり降られただけだという渋沢に大して湿っていないタオルを頭に落とした。
「俺のときはこんなに酷くはなかったよ」
 タオルを取って三上に返そうとする渋沢に仕方なしに引っ手繰って、がしがしと乱暴に拭いてやる。いきなりの三上の行動に渋沢の首が痛そうな音を立てた気がしたが、気にしない。痛かったのなら遠慮なく渋沢が言ってくる。
「あ、おい。三上」
「あー、うっせ。うっせ。お前が休んだらしわ寄せが全部俺にくるんだよ。お前が俺を副部長に指名してくれたおかげでな。労力は最小限に抑えるのが当然じゃねぇか」
 苦々しく、もしくは憎々しく三上の低い声が言う。
「…お前の基準がわからん」
 抵抗する気力が失せてなすがままになっていた渋沢がぽつりと零す。
「ああ!?んなもん簡単じゃねぇか。今お前のメンドウ見るか、明日バカどもを怒鳴りつけるかだろう。考える必要もねぇな」
 頭を拭く手は止めないまま、三上は律儀に返した。日頃めんどくさい問答はスルーすることが多いと知っている渋沢は珍しいと思う。
 だが、それ以上は渋沢も何も言わず、目の前に晒されたうなじを見て、三上は窓に目をやる。
 言う気なんてない。言いたくもない。
 三上は他人との距離が必要以上に縮まるのが嫌いだ。なのに、抱いた想い故にその感覚が酷く曖昧になってしまっている。それを甘受している己の心が三上は吐き気がするほどに悍しい。そう思うのも真実でありながら、今、この位置にいることが心地よかった。
 ひとりでいた頃のように離れてしまいたい、ずっとこのままこの位置にいたい。
 二律背反アンビバレンツする心。
「三上」
 髪を拭かれて俯いた状態のままの渋沢の言葉に三上はおざなりな言葉で返す。互いの視線はあわない。
「そういえば、今日はデートじゃなかったのか」
「ああ」
 何を言い出すかと思えば、という雰囲気をありありと出している三上だが、渋沢は気にしない。今までの付き合いで相手の空気を気にしすぎるのはバカらしいと二人の共通の認識がある所為だ。
「まさか、一緒に濡らさせたのか」
 顔を上げ、窓に映る三上を睨む渋沢に三上はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「そもそもお前の認識が間違い。今日は別れ話」
 三上はタオルを取って、首に張り付く髪に軽く当てた。
「泣いて縋るの帰らせて休んでたら降ってきやがっただけだから濡れても本人の責任だろ。って、お前、アホ面すぎ」
「え?あ、いや」
 茫然としていた顔を慌てさせる。自分の前でだけ自由になる渋沢の表情。それに三上は気づかれないていどに口元を和らげた。
「…結構、似合っていたよな。お前に」
 座っている分少し上目遣いになる渋沢に、三上も見下ろすように見やると、随分と複雑な表情をしていた。
「まぁ、悪い顔じゃなかったからな。でも、向こうの自業自得だぜ。アソビだって言ってんのに本気になれだと。俺はあんなのに命令されるいわれはねぇよ」
 だから切り捨てたとあっさり言うのに、渋沢は苦笑を漏らした。
「そうだな。相手には悪いがそれでこそ三上らしい。三上は、三上が望むもののためだけにいちばん時間を使うから。今は他所に目を向けることもない」
 言葉がなくとも通じる意志が嬉しいが耐え難い。
 たとえ、両思いになれるでも言うつもりのない感情。いつか溢れ出て、悟られそうで恐い。いっそ悟られればいいと思うのに。元のように孤で立とうと思うのに。隠したがる、ふたりでいたがる己がいる。
 彼が欲しいという自分を知っている。
「克朗ちゃん。コーヒーなぁ」
 仕上げだというように、くしゃりと髪を掻き混ぜて、悪魔の異名をもつ笑みを向け、出口を欲しがる黒い感情は腹に凝る。三上は手にしたタオルを背後に向けて一振りした。彼の苦笑の気配がドアで遮断される。
 タオルは水と渋沢の気配を半分ずつ持っているようだった。

 廊下の窓の1つが何故かもう開いていて。




クウは雨の後のどこか錆びたようなにおいがした。




 うーむ。わけがわからん。渋沢と三上のほうで同じだけの長さを求めたら意味不明に。
 取り敢えず、お互いがお互いを好きなんだけど、お互いにお互いの気持ちに気付いていない。ということだけわかってもらえたら本望です。
 日々精進。