いつか別つ、その時まで…
いつか別つ、その時まで・・・
繰り広げかけられた光景に三上は息を呑むより先に動いていた。
見た瞬間心臓は鼓動を鳴らすのを忘れた。
渋沢は俯いて顔を上げない。
三上は黙って何も言わない。
ただ、二人の距離は近かった。額を寄せ合う距離だ。その近さに居ながら空気は果てし無く重い。二人の沈黙がそれに拍車をかけていた。お互いわかっているだろうにそれでも口を開かない。
三上がやはり黙ったまま渋沢の右手から手を放した。見る者が無条件に痛々しいと思ってしまう白い包帯が巻かれていた。
「・・・すまない」
沈黙を破った声は小さい。渋沢はまだ顔を上げられない。
三上は立ち上がり背を向ける。怒鳴ってしまいそうであり、怒鳴りたくなかった。渋沢を追い詰めかねない言動はとりたくなかった。
出会いからもう六年。友達なんていう関係を超えて四年。相手のことなど見なくともわかるようになっていた。どんな考え方をするのかも。何より今回の行動が渋沢の観念から大きく踏み外していることは、誰から見ても一目瞭然だった。
渋沢が弱さを見せたことがないわけではない。
三上は渋沢が感情を殺し、役目の自分に三上の前でもなろうとするのが好きではない。はっきりと嫌いだった。だから無意識でもなんでもつくるなと、それこそ無意識なら無理なことを言ったことがある。言われ、徐々にでるようになった渋沢は時にはとても弱かったのだから。
だが、ここまで彼の精神が不安定さをみせたのは初めてなのだ。
「部長と寮長の兼任を懲りずにお前がやってて良かったよ。じゃねぇと今頃大騒ぎだぜ?」
シニカルな笑みを三上はいつものように顔に乗せる。口調も選んだ言葉もいつもと同じになるように。
三上から渋沢の反応は見えない。備え付けの救急箱を元の位置に戻しても、渋沢の方に向き直れなかった。
ただ単純にどんな表情をすればいいのかがわからない。怒るべきか、無事を喜ぶべきか。決してしないだろうが邪魔したことを詫びるべきなのか。
渋沢も右手の包帯に目を落としたままどうすることもできなかった。右利きの渋沢が左手に握っていたものは今は三上の机の唯一鍵のかかる引出しに入っている。
その意図は明らかだった。
渋沢は右手をゆっくりと握っては開くという動作を繰り返す。
傷は深くはなかった。押し当てたときに三上が入って来ていたからだろう。そうでなければ刃は深く肉を引き裂いていたことだろう。刃物は引いたときにその威力を発揮するのだ。多分、動脈まで達していた。それだけの力を込めると決めていた。
手を動かし出した渋沢を三上はベッドに腰掛けて見ていた。掌の中の小さな鍵を戯ばせる。
渋沢の行動は所謂リストカットだった。彼がやろうとしたのは突発的にするでも、狂言でもない随分の念の入った両手を切ろうとするやり方。
まず、利き手の側の脈を切る。これは先に利き手で切ると後で利き手の方を切れなくなる為だ。思い切り突き立てれば動脈に届く、血が出るのは静脈の比ではない。ナイフに付着する血で手は滑るし傷で力が入らない。利き手でも同じ条件には変わらないが、それでも利き手の方が力は入るだろう。
それは本気で死にたい奴がする方法だったのだ。
成功していれば、命は間違いなくなくなっていただろう。例えば、三上が予定より早く帰っていなければ。渋沢の行動がもっと早くに行われていれば。
渋沢の静脈を掠るだけですんだそれは本当に危なかったのだ。
渋沢が漸く顔を上げる。
部屋の内の静寂と部屋の外の騒音。現と夢との差が曖昧になるような感覚。眩暈を呼び起こしそうな、そのギャップに耐える。
渋沢もそこまで弱くなるつもりはない。こんなにも脆くなるのはたったひとつに対してだけで良い。
「三上。手当て、ありがとう」
渋沢は平生を取り戻したようだった。小さく笑ってみせた表情からは先程の様子は窺えない。
訊くべきか、否か。
迷うのは一瞬。訊いたところで、言わないという道が訊かれた方には残っている。
「俺に言いたいか?」
間が生まれた。それは言うかを悩む類のものではなく、いかにして断るかを考える時間だ。相手がいくら三上だとはいえ、そんなことを簡単に読ませてしまう渋沢に三上は手を振って止めさせた。勿論、悩むことを。
無駄な時間を使えるほど暇なわけではないのだ。二人とも。本来は。だから、言う気がないのならそういえば言い。言えないのなら。言い辛いのなら。
だけれど。言わせたい。
「三上。あのな」
躊躇い気味に発せられた渋沢の声に背を向けかけた三上は元の体勢に戻る。ベッドに腰掛けていたのも手伝って寝そべろうとしていたのだ。
しかし、渋沢はそこでまた黙ってしまった。だが今度は話し出す頭の部分を探しているらしい。必死に探している渋沢を見て三上は考えを改めた。もしかしたら渋沢は言いたかったのかもしれない。取っ掛かりを摑むことができずに困っていただけなのかも、と。その実、上手くいったと思いつつ。
渋沢は普段見せている部分が部分な為、何に関しても器用だと思われているが、実際はそうでもなく不器用な面が多い。中等部から同じ奴でもまだ気付かない人間が殆どだということを顧ると、渋沢の仮面は三上が思っているよりも上等なのかもしれないが。
「不安、なんだ」
聞いた言葉を三上はかなりの時間――といっても三、四十秒――をかけて吟味してみた。何度も反芻を繰り返した結果、三上は眉を寄せる。
「お前が?今更?」
ありありと、声にも顔にも不審という単語が浮かんでいる。言うに事欠いてそれはないだろう。
渋沢はこれからプロの道に進む。彼が入る処は中・高と渋沢が収めた実力を充分評価している。しかも彼自身好きなチームだ。喜びならわかるが不安。不安だという。まさかポジション争いではないだろう。武蔵森内然り、ユース然り、トレセン然り。渋沢は今までにありとあらゆるチームでポジションを勝ち取ってきた。先にプロとして揉まれていた相手であるとしても緊張はあっても不安というのはしっくりこない。勿論、それに対する不安がないとは思わないが。
だからといって「チームや選手と上手く馴染めるかどうかが」なんて言おうものなら、一発ぐらい殴ったところで誰にも文句は言われないだろうと言うものだ。寧ろ奨励されるやも知れない。
しかし不安だと言った渋沢は本気らしかった。そもそも冗談を言うタイプではないし、例え言ったとしてもこういうときに言うことはない。
仕方なく三上は返事を待つことにした。まさかこの一言で終わりだなんてことはないだろう。もし、渋沢がそのつもりだったとしても三上のこの表情を見れば予定は変えるしかない。要するに、不審という文字はまだ三上の顔にしっかりと、しかもデカデカと書いてあるのだった。
じっと渋沢は三上を見ていた。様子を探るように。見られ慣れている渋沢と違って三上は居心地が悪い。悪いが、これは我慢比べの要領だ。三上は待っていた。
「怒るなよ。お前と離れるのが不安なんだ」
呆気に取られるとはこんな時に使う言葉だと三上は生まれてこの方十八年、初めてしみじみと納得してしまった。
「終わりを見てしまった気分なんだ。目の前に終わりがある気がしてならない。違う道を選んだことに後悔はないのに。別れが怖いんだ。笑ってくれていいよ、三上。
お前がいなくなる前に、死ねばいいんじゃないかって思ったんだ」
泣きそうな、泣く一歩手前の顔で渋沢は微笑った。
痛い笑顔だった。
Fin
暗いです。しかもこの話はこれで終わりです。フォローはするのでその意味では終わりってことにはならないかも知れなせんが。初めはこれだけの予定だったんです。救われない。友人に見せたら、「これで…」と非常に嫌そうに言われたので書くことになりました。三上喋ってないし。甘くなりますよ。友人多数が私は甘専だと言い切りましたからね。
「痛い、笑顔だった」で終わらせたくて書いた話だったんだから暗く終わって当然なんですけどね。…えぇ、そうです。内容なんて決まってませんでしたよ。書き始めは。本当にあの一言が使いたかっただけですもん。
2003/05/22