きっかけが何であったのか、よくわからない。
確か、誘われた気がすると、隣で眠る細身の少年の真っ直ぐな黒髪を梳きつつ、渋沢はそのときを思い返した。
何の変哲もない日だった、と思う。如何によいといわれる記憶力でも一年近く経った日を鮮明に覚えているのは難しい。学校も部活も寮にも慣れた頃の珍しい、本当の休日の前の日で、予習も何も終わらせて寛いでいたのではなかっただろうか。
互いのスペースで、別に干渉するでもなく過ごしていた時間。渋沢は読み止しだった文庫本の続きを読み、三上はネットをしていた。少なくともパソコンをいじっていたのだ。
それが不意に影が出来て渋沢の前が暗くなり、不思議に思って顔を上げたら三上の口に自分のそれが覆われていた。
三上はゆっくりと離れて、無言で目を瞬かせて誘い、渋沢はそれにのったのだ。終わっても何かあるわけではなく、三上は白い裸身を照明の抑えた暗い部屋に惜しみなく晒して、
「案外上手いのな、お前」
と言っていた。
それからこの曖昧な関係は、どちらかが誘って月に1,2度あるかないかといった具合で一年、そう一年も続いていた。
他人が近くにいることを厭うわりに、三上は渋沢に対してはそういうことはなく、それなりには―――それなり以上に、か―――円滑にいっている。
終わった後も動くのが単に面倒なだけなのかはわからないが、二人で眠るのには狭いと十二分に理解しながら三上が渋沢のベッドから出て行くこともない。
本当に微妙で曖昧な関係だと、そう思う。
いつもはそうでもないというのに何故だか今夜は目が覚めてしまって、渋沢は視線を彷徨わせた。目に留まった卓上カレンダーをもう少ししっかり見ようと思い、隣を起こしたり寒がらせないように肘を立て、そっと状態を起こした。
改めて日付を見て、同じようにそっと戻す。
「明日…か」
一年という長いようで短い時間。
「お前は、何が望みなんだ?三上…」
ただ小さく呟いていた。
相手が安らかな寝息になる頃に三上はそっと目を開けた。
余計な布一枚もなく素肌から流れ込んでくる熱も鼓動も、すべてが心地良い。気だるい感覚はあるものの、なれた所為か体の調子はよかった。
傍らの存在に休まるのだ。間違いなく今現在渋沢は隣で眠っているのだが、どうにも三上には渋沢に対してその“隣”という単語がしっくりとこなかった。説明なんて上手く出来ないが、“傍ら”なのである。
今であれば、触れ合う体温が好きだと思う。間近で感じる息遣いだとか、吐息も。さっきのように髪を梳く動作であるとか、その手だとか。
だが、当然一年程前のこんな関係を築く前にそんなことを知っていたはずもなく、しっかりとボールを受け止める手だとか、細かいことも得意な指だとか、「三上」と自分を呼ぶ声が好きだった。勿論、今も好きだけれど。
他の奴等には崩さずに笑っていた顔も、自分の前ではそうでもないのも、三上は気に入っていた。無意識に行われるそれがとても好きだった。
ただ、それとあのときの台詞も行動も一致しはしないのだが。
何がどうしてそうしたのか、自分のことではあれど一向にわからない。気がつけば目の前に立って、渋沢にキスをして、後は無言でもって見つめていた。それを一般に“誘う”というのは三上も認めている。のった渋沢の本意もわからないけれど。
「…もう…か」
抱かれてみて、漸くそういう意味で好きだと自覚したのだから相当鈍い。だが、三上はそれもこれだけだ、と思っている。まぁ、一般的に生きてきたのだから簡単に思いついてたまるか、というものだろう。
消えるような声が零れて、後は睡眠に身を委ねた。
三上がゆっくりと目を開けると、陽は随分と高かった。寝起きの悪い頭はそれでも今が昼だと認識する。本当に随分とのんびりと眠っていたものである。
「ああ、起きたか」
相変わらずの優しげな笑顔と声音で陽を隠すように覗き込んだ渋沢に手を伸ばして無言で要求する。心得ているのか、コップに注がれた水がすぐに渡された。半分ほど入っていた水を一気に飲み干すと無造作に立ち上がって伸びをした。それもそのはずで三上は部屋着を着ていた。渋沢が寝ている三上に着せてやるのだが、それでも起きない三上は如何なものだろう。
「今何時だよ」
「1:17」
「…。俺のメシは」
寝起きの悪さとは違った意味の剣呑な目で三上は渋沢を睨んだわけだが、
「どうせ無理に起こしても休みだと食べないでそのまま寝てるだろう?何か食べるなら俺が作るよ。何がいい?」
渋沢にそれを気にした様子はない。慣れというのもあるのだろうが、別に三上が本気で腹を立てているわけではないことを知っているのだ。
「あー。何かさっぱりしたモン」
「わかった」
小さく笑って、渋沢はすぐに戻るといって出て行ったのだが、本当にすぐに戻ってきたりする。その手にはちゃんと食事があるのだ。
「お前、いくらなんでも早すぎだろ」
「三上が言うことくらい想像がつくからな。先に作っておいたんだ」
にこりと笑う渋沢に、
「けっ。用意がよすぎんだよ、てめぇは。俺が違うこといったらソレ、どうしたんだよ」
軽く毒づき受け取った三上がついでのように話を進める。裏をかいて次にやってみようと思っているのかもしれない。
「ん?ああ。藤代あたりが食べたんじゃないかな?」
小首を傾げて渋沢が言った言葉は真実味がありすぎて、というよりも間違いなく事実になるだろう。馬鹿馬鹿らしくなって適当にそっけなく返した。
「他にも何か持って来ようか?」
生来の面倒見のよさか、更に続けられた言葉に三上は首を振った。
「減ったら3時でも4時でもそんときに食うからいい」
「なるべく一時にとったほうがいいんだぞ?」
それにもへーへーといい加減に答えると、渋沢はひとつ溜息をついてまたドアのほうを向く。
「どした」
三上が声をかければ、振り返って答える。
「お茶を淹れてくる」
「コーヒー。ブラック」
すかさずつく注文に、
「わかってるよ」
渋沢は苦笑いを返した。
どこか落ち着かないような態であった渋沢もお茶を淹れて本を持って床に座ったときにはすっかりいつもの調子に戻っていた。落ち着かないようなといっても、常に身近にいた三上だからこそ気がつくような些細なものであったが、違和感には違いなかった。
コーヒーを味わいつつも、三上は渋沢を見ていたが、これといって何が原因だかよくわからない。
三上にとっては、今日は一年が過ぎる日ではあるが渋沢にとって三上との関係がどの位置にあるのかがわからない以上なんともいえないのだ。
「なんだ…?」
不思議そうに渋沢が問いかける。
「いや。コーヒー淹れるのホントに上手くなったなと思っただけ」
頁をめくる音がしないと思っていたら、どうやら渋沢は自分の視線が気になっていたらしいと知って三上は嘯いた。家の誰もコーヒーを飲まないという渋沢は初めに比べて本当に上手くなったのだ。
「そうか。それはよかった」
ほっとしたように笑う渋沢は、それで納得したのか本の世界に入った。
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