邂逅
宵闇の願い
月を背に従え、天より地に降り立った冷涼な雰囲気の男は恰も天上に住まうが人の如く、玲瓏と笑った。
「これは、お初にお目にかかります。名探偵。それともお久しぶり、と言うべきでしょうか」
柔らかな極上の絹のようで、鋭い刃物のよう。そんな正反対の印象を与える笑みを浮かべ、稀代の大怪盗は優雅に一礼する。
「全くだな、怪盗KID」
一方は睨むような眼差しで、不敵ともいえる笑みで返した。
「まずは元の姿に戻れたことに心からのお祝いを。そして、組織を崩壊へ導いたこと。流石は麗しの名探偵殿。しかし、貴方は未だに狙われの身。警察からの要望は断りづらいのでしょうが、そう目立つ行動はお控えになられた方が」
よろしいのでは?と。
優雅な物腰から放たれたのは外部に漏れるはずの無い機密。けれども、相手は確保不能と謳われる彼の大怪盗。彼ならば何を知っていても可笑しくは無い。
「はっ。んなこと普段からそう目立ってる奴なんかには言われたかねぇな」
けれど、驚きがないというわけではない。こちらとて持てる頭脳を酷使しての情報戦だったのに、それをいとも簡単に言われては。
名探偵の名を冠する彼も事件の中で培われていったポーカーフェイスに動揺を包んで解こうにも解けない目の前の謎に返した。
「私は良いのですよ。これが私なのですから。ですが名探偵。貴方は本当に、実に時運が悪い」
怪盗は優雅な微笑にほんの僅かに困惑とも苦笑とも取れる表情が混じる。
それに訝しむ要素すら入れる間もなく、元々近かった空間は零になる。新一は思い切り腕を引かれ怪盗に抱き締められていた。怪盗は新一を腕に抱き包んでドアに背を向ける。
「キッ…」
新一の慌てた声に被るように乾いた音とコンクリを抉る音が静かとは言い難い夜に連続して響いた。
一瞬、新一の頭に自分が潰した黒の組織の残党かという疑念が起こる。なのに、怪盗に抱き締められている状態でその確認もままならない。
暴れようとすれば怪盗の力が強くなる。新一に出来るのはただそうしているだけで、銃声が止むのと同時に低い声がした。
「貴様が探偵と知り合いだったとはな。その状態では逃げられないだろう。宝石を渡してもらおうか。怪盗KID」
「何度でも申し上げますが、貴方に渡すものなどありはしないのですよ。スネイクさん」
腕の力は緩み、新一は放される。怪盗はくるりと新一に背を向け、スネイクと呼ばれた男と対峙した。
どうも狙撃者は新一ではなくKIDが目的だったらしい。だが、新一が思ったのはそんなことではなく、男の言葉の内容。『逃げられない状態』それは何を意味するものか。途中で音が変わったのはどうしてか。
普段であるならば、新一にとってそれは考えずともわかること。
けれども今は、何故だかわからないが新一は考えたくなかった。そして、顔を上げられなかった。いつもならすぐに反撃できるようにするのに、庇う様に立っている怪盗の背中を見るのが怖かった。
過ぎった可能性を必死で否定する。
「敵である探偵を庇うとはな。お前にとってその工藤新一と言う男はそんなに大事か」
鼻で笑うような口調に憤りを、それ以上に自分の想像と合致してしまう言葉に新一は正面を見た。白いスーツの後姿と翻る同色のマントが広がる様を無意識に思い浮かべながら。
けれど、現実は裏切られる。
「私は私の所為で傷ついてしまう人がいるのが嫌なだけです。昔からそうでしたでしょう?スネイクさん。私のことに巻き込まれて怪我を負う人がいるのが許せないのです。彼でなくとも私は庇いますよ。ただ、こうして私の元に来られたのが工藤新一だった、それだけのことでしょう。
それよりも、忘れられては困りますね。私は確保不能の怪盗KIDです。これくらいのことで私を如何にか出来るとお思いですか?」
くすりと怪盗は笑う。その表情に翳りの一つも見えはしない。汗すらも浮かんではいない。どこまでも気品に満ちた所作で、怪盗はしっかりと立っていた。
新一はその背後で呆然と怪盗の背を見ていた。彼の言葉とは反比例して怪我は血を吹き出している。風に靡き一定の位置には無いマントも赤い血はその面積を広げていく。怪盗が言葉を重ねるたびに、その赤は重く滲みていく。
そして、血はそこからだけ流れているのではない。俯いていたときから視界の隅を奪っていた朱すらも足に穿たれた傷から流れるもの。膝より上にある傷は月の光を集めたような白のスラックスも赤く赤く変えていく。
「だが、お前は一度死んだはずだ」
唸るように言葉は発せられた。怪盗はそれを笑ってみせる。
「さて、それはどうでしょう。私には死など無いのですよ。寿命が来ると火山の中で甦るという不死鳥のように私も生き返る。何度でも、ね?」
余裕綽々の怪盗の様子にスネイクが再び銃を構えた。宝石が手に入ればいい組織にとって怪盗の存在は邪魔にしかならないのだ。
トリガーに掛かった指が引かれる。
「うっ…」
「そう何度も撃たれるわけには参りませんので。悪しからず」
小さな音を立ててスネイクの手から銃が弾かれ、計算されていたかのように銃はスネイクからは取り辛い位置に落ちる。何時の間に取り出したのか、怪盗の手にはトランプ銃が握られおり、スネイクの足元に一枚のトランプが突き刺さっていた。
まるで子供のようにくるりと持っていた銃を回し、それからふと真剣な顔をしてもう一発、二発と放った。
一発は手を押さえて蹲るような動作を見せていたスネイクの顔のすぐ傍を過ぎる。微かな音を立てて通り過ぎたトランプが顔に赤い線を残した。もう一発はスネイクの手から飛ばした銃を弾く。弾かれた銃はKIDの元へと導かれたように滑った。
撃たれているのが嘘のようなその正確さ。
愕然とした顔の男にKIDは冷涼とした空気を揺るがさないままに辞去の挨拶を述べる。
「それでは御機嫌よう」
顔には出さないだけで、空気とて変えずにいられても、KIDももう限界だったのだ。自分の状態は自分でよくわかっている。
被弾した部位は高熱を発しているし、激痛は絶えず襲い掛かっている。出血の所為で眩暈のように頭はくらくらした。出血の量が酷いのを承知でここまで時間をかけて見せたのは、パフォーマンスの一種だ。
自身の体、それよりも背後に隠した新一の気配が心配だった。いつもの彼らしくない気配が怪盗の怪我を心配してのことだと早々に気が付けたものの、結局こんなにも時間が掛かった。秒単位で新一の焦燥が強くなっているような気がして、多少強引にだがスネイクの手から銃を奪い辞去までもっていったのだ。
事実、新一は恐慌状態に陥りそうだった。狙撃者、どこかの組織の人間がいる前だからこそ辛うじて手を伸ばさずにいられるが、目の前の怪盗の傷を確かめ、手当てがしたかった。刻一刻と過ぎていく時と比例して、怪盗の白は赤に犯されていく。滴りそうなほどに血が流れているのに怪盗は言葉遊びのようなことを敵対者に放つだけ。
訳も無く、泣きたくなる。白い怪盗を失ってしまいそうで嫌だった。無意識に新一の手が怪盗のマントを摑もうとした。その時。
トランプ銃も実弾の出る銃も一纏めにマジックで消した怪盗は新一を腕に抱く。伸ばされかけていた腕を己の首に回させて、妙に青ざめた新一に怪盗は笑って願った。
「落としたくありませんのでしっかりと摑まっていてくださいね」
白い怪盗の白い羽が月夜の空に羽ばたく。けれど、本来純白のはずの翼は、半分を深紅に染めていた。
その場に残されたのは、2枚のトランプだけだった。
十分な高度を以って工藤邸までハングライダーを操った怪盗は静かに庭に降り立つ。勿論人目のないことは確認済みだがこういうときはこの屋敷が閑静な住宅街であることに有り余る感謝を捧げてしまう。何せ、夜半過ぎであっても酔っ払いがふらつくような所ではないのだ。
危険が減るのは望ましい。
怪盗は心底そう思う。自身の保身のためなどではなく、怪盗との接触があった新一の為に。下手なスキャンダルは新一の探偵生命をいとも容易く切ってしまうだろう。怪盗は己の失態で新一の能力を殺してしまうことを恐れていた。『怪盗と密会!?』なんて例え嘘でも週刊誌に載るようなことになったら彼の夢を損ねてしまうのだ。
「名探偵。もう大丈夫ですよ」
首に回された手を解きつつ怪盗は優しい声で囁き掛ける。その声は普段であれば透き通るように通るのに今は本人が意図している為か殆ど広がることなくその場に落ちた。
「…大丈夫…?」
どこか壊れたような、まるで反応の鈍くなったブリキのおもちゃのように新一はその言葉を反復した。
「ええ、ここはあなたの屋敷です。場所が特定されないようにきちんと回り道もしましたし、上空から見た限りでも貴方が潰した組織の残党もいませんでした。
名探偵」
怪盗は口調を今一度改めるように新一に呼びかける。新一は酷く緩慢に視線を合わせた。怪盗にとってはその僅かな時間さえも本当は辛かった。
応急手当すらできないままに長時間飛び続けた。しかも一人用のグライダーにいくら細身とはいえ自分と同い年の人間を抱えるなんていう無茶もした。
並の人間なら立っていることさえ不可能だろう。だが怪盗は、撃たれた箇所の筋肉を意識的に緊張状態にしてなるべく傷口を塞ぎ出血を抑え、その類稀なる頭脳と運動神経を遺憾なく発揮して現状の維持に努めた。本当はいくら意思をしっかりさせようとも所詮人の身である体はじくじくと傷を痛ませ、血の足りない頭は朦朧としていた。体力も精神も新一の参戦で普段以上に気を張り詰めていたこともあり、限界を超えていた。
それでも怪盗は新一がその目で見返してくるのを辛抱強く待っていた。決して焦らせることもなく。
「KID」
怪盗が聞きたかった声が返る。焦りはあるものの理知の光を取り戻した新一の声と目に微笑を向けた。
「本日は名探偵を私の業に巻き込んでしまい、真に申し訳ありませんでした。失礼かとは存じましたが、名探偵は一種のショック状態にありましたので、この罪に塗れた身であれどお運びさせていただきました。庭先とはいえ御自宅の敷地内に不法侵入をしてしまいましたこともお詫び申し上げます。
名探偵も調子を取り戻されたようなので私はこれにて失礼を。今宵は冷える夜ですのでどうぞお風邪などをお召しになられませんように」
最早使い物にはならないだろう程に血を吸ったマントを純白であった頃と変わらずに捌いて一礼する。気品を失わない男は新一に何も言わせないうちにその姿を消した。
忽然と。
怪我をしていたことの方が嘘であったかのように、美しく、鮮やかに。
「キッ…!」
思わず大声を出しそうになった新一だったが、呼ぶその名を思い出して慌てて口を噤んだ。
もし、誰かにその名を聞かれたら、この周りは騒然となるだろう。その声はKIDに好意的なものかもしれないが、騒ぎが大きくなれば怪盗の逃走に邪魔になる。彼がどんなに平気そうに振舞っていたとしても怪盗が怪我を負っている事実が変わることはない。
ぎり、と新一は歯噛みした。何もできない自分に。
あの時、もう少しでもしっかりしていたなら怪盗を引き留めることができたはずだ。そうすれば、自分ができずとも隣家の科学者の手を借りてでも彼のためにできることがあった。
彼の治療ができた。
今、新一にできるのは願うことだけ。彼の無事を。それが確認できる彼の予告状が届くのを。警察には悪いけれど。
だから新一は、今は願う。
Fin
始めに考えていたのと大きく違う話になったということだけはわかります。新一が怒鳴りつけて手当てする予定だったのに。でも、一番初めに考えていたものは空の彼方。ブラックホールの中です。さすがに10ヶ月近く前のことはさっぱりです。
2003/06/29