癒し、癒される。
宵闇の脅迫
ここは閑静な住宅街でも異彩を放つ家。真夜中もいい加減過ぎているというのにいまだ明かりの消えない窓がある。
コンコン。
軽やかな音を立てるノックに中にいた少女はひとつ溜息をついてから窓辺に近づいた。
「何か御用かしら?」
カーテンを開け、窓を開け、少女は窓の外へと声をかけた。これだけだとすると何やら彼女の行為は奇行じみていた。
何しろ彼女の開けた窓にはベランダというものはない。それにその部屋は二階にある。いくらノックされたとはいっても普通なら勘違いで済ましただろう。いや、それ以前にこんな時間まで起きているはすがないのだが、今はそれには目を瞑る。
「申し訳ありません。決して貴女の邪魔をしたいわけではなかったのですが、他に心当たりがありませんでしたので」
そして、本来なら奇妙であるはずの彼女の行為をそうさせない声。だが、今度はその声がすることが妙になるのだが、その声はあまりにも当然のようにそこにあって例え誰かが聞いていたとしてもそうと認識はできなかっただろう。
「いいわ。別に急ぎだったわけじゃないもの。ちょっとした遊びだから。早く入ってらっしゃいな。見られてしまうわよ?」
微かに苦笑を覗かせた少女の大人びた声が入室を許可する。迅速な行動をモットウとしているはずの声の主は珍しく躊躇を見せた。
それに気づいた少女はようやく窓の外を窺う。
「ええ、入りたいのはやまやまなのですが、お部屋を汚してしまうのを忍びなく思いまして」
視線のかち合った声の主、一般とは言い難いものの、逆に普通より凹凸がない住宅の壁に平然と摑まっているのは言わずと知れた怪盗KIDだった。
少女───哀はその言葉を一瞬にして理解すると小さい声ながら怒鳴りつける。
「そんな体で何無茶をしているの!?いいから早く入ってきなさい!!」
烈火、とも言うべき勢いに怪盗は目を瞠るものの先程までの躊躇いは何かと言いたくなるほど素直に入って来る。
本当に何処に摑まっていたのか、入ると決めた怪盗は片腕だけで支えていた体をその腕の力を巧く利用して、ふわりと中に入った。
その姿はどこまでも優雅で。無意識のうちに指先まで通っている所作の美しさが人の目を奪う。けれど、今はそれも効きはしない。ほんの僅かなバランスのずれ。微かに体重が傾けられていた。
「怪我は足だけ?前を向いていてはわからないわ。後ろを向いて頂戴…」
部屋の片隅に置かれたかばんを開けつつてきぱきと言う哀が声を呑んだ。
呆然とその姿を見てしまう。声を失ってしまうしかないではないか。
怪盗の背は血でしとどに濡れていた。微かな空気の動きにも靡くマントはぐったりとしたように垂れ下がっていた。着地時に体重を掛けないようにしていた足の方もしっかりと血の洗礼を受けている。それは終わることなく流れるのだ。
「まだ、やせ我慢は続けられる?地下の設備を使いたいわ」
驚きはより迅速に処理される。医者だったわけではないけれど、怪盗の怪我を見た哀は自然そう訊いていた。手持ちに置いてあるのだけではどう考えても器具が足りない。血で濡れた服の所為で確認はしていないが、傷はどれも銃創のはず。弾の摘出は手術だ。こんな小さな光源では足りない。
「勿論。貴方の部屋を汚す気はないと申し上げましたでしょう?私はまだ大丈夫ですよ。駄目ならあんなことは流石に致しません」
壁にいたことをあげて小さく笑う。怪盗自身も思えばどうしてあんな無茶ができたかなと今になって不思議ではあれど、現に大丈夫だったのだから、いい。
「それだけ言えれば上等だわ。行きましょ」
怪盗は既に何度もここに来ているのだから別に先導しなければならないわけではないのだが、哀は先に立って歩く。確かに地下に入るにはIDがいるが怪盗にはあってもなくても大して変わらない。大して変わらなくても、時間を短縮するのは必要だった。
「それで。応急手当すらしてないなんて何があったの?」
電子音が鳴るとドアは簡単に開いていく。もうひとつのドアを潜ったところの救急病院の手術室のようなところで哀は準備を進めながら質問をする。傷を負ってどれ程経ったのか、そのときの状況は。医師として聞いておくことは多くあるのだ。
「怒らないでくださいね。
今日は名探偵が私の仕事に来ていまして、いつもよりスリルのある仕事になりました。勿論、私の勝ちでしたが、取られたあと名探偵は中間地点にも来ていまして、どうせですのでお祝いとちょっとした注意を。そうしましたら私のお客様がいらしてしまいまして、珍しくも律儀にドアから入ってきたお客様から名探偵を隠したのはいいのですがこうなりました。銃を奪ったので名探偵を御自宅までお連れして今に至ります。
そうですね、あそこからはかなりの距離がありましたので被弾してからの時間はざっと1時間程でしょうか。着弾に至る距離は10メートル少々。銃器はこれです。ついでなので頂いて参りました。臓器は損傷していないと思いますよ?何しろかなりの無茶が叶いましたから。ですが、骨はやられているでしょうね。貫通もしていません」
痛いだろうに白いスーツもYシャツも自力で脱ぎながら怪盗がした今回の概要はそうであった。ついでに怪盗はズボンに下に半パンより若干長めのズボンをもう一枚穿いているので下着姿ではない。その辺は緊急時にこうやってここにお世話になるときの為の用心だ。哀は気にしないだろうが、やはり怪盗紳士たるもの女性にそんな姿を見せるのは彼の意識に引っかかるのだ。
「それは見ればわかるわ。さ、横になって。始めましょう」
途中で一切の不備がないように準備を整えた哀が静かに促す。その顔色が青みを増したのは今日の怪盗の行動の所為なのだが、こればかりは仕方がないので怪盗は小さく礼を言う。哀も怪盗を止める気はない。わかっている者特有の表情で本当に小さく笑みを見せるだけだ。
一人の助手もない4発もの銃弾を摘出する手術は人々が眠りに沈む時間に地下室で密やかに始まったのだった。
ゆっくりとした意識の覚醒に怪盗は無意識に状況の確認に入る。少しは抑えられているものの自身でつけた薬の耐性の所為か痛みは断続的に襲っていた。手術に当たって施した麻酔すら速めに切れてしまったらしい。
左腕に繋がる針とチューブを辿っているとドアが音もなく開くのが視界に入った。
「あら、もう起きてしまったの?前よりも効き目が弱くなっているのね」
なにやら呆れたように呟いた哀が「それで調子はどう?」と訊くのに「少し熱っぽいよ」と怪盗は思わず素で返してしまう。もともと一人では困る怪我の手当てを頼みだしたときから哀には正体が知られていたこともあるから怪盗は、いや、快斗は小さく笑った。
「そう。仕方がないわ、それとも寧ろ当然と言うべきかしら?あれからまだ3時間だもの。そう簡単に元に戻られても私の興味が煽られて困るわね」
そう言って笑う哀から本気を感じ取って快斗は冷や汗混じりに力なく笑い返す。
「さて、黒羽君?」
改めて呼ぶ哀から感じる不穏な空気。快斗は本格的に自分はまずいんではないだろうかと考えた。
体はまだ動かない。というか、動けてもこの格好ではどうしようもない。一応パジャマだから逃げられないわけではないが、怪盗の衣服一式はたぶん哀が隠してくれているのだ。もう使い物にはならないのをわかっていて、快斗にとって大切なものだとわかって隠している。
それに、哀のこの不穏な空気も快斗を心配すればこそ。だから彼は甘んじて受けることにする。
別にこの関係は好き合っている、というわけじゃない。勿論、快斗も哀もお互いのことを好きではあるけれど、それは姉のような思いであり、弟のような思いであり、要するに家族を思うように好きなのだ。お互い大切な家族を失わさせられた二人は。それがなくともきっとそんな好きだろうけれど。
「私をこんなに疲れさせた罪は重いわよ?」
にっこりと微笑まれ、快斗は上目遣いになって黙り込んだ。側の椅子に座っていた哀の袖をちょいちょいと引っ張って快斗は顔を曇らせる。
「ごめんなさい」
3時間。それは快斗が目覚めるまでの時間。でも、手術の時間は長かった。終わったのは空が白み始める前。今は朝時真っ最中。哀は当然学校も休んだし、寝てもいないに違いない。
素直に謝る快斗に哀は苦笑する。別に快斗が悪いばかりのことではないのだから。だが、だからといって哀は追撃の手を緩めるような相手ではなかった。快斗としてもそれを狙っていたわけではないし、快斗が本気で心配を掛けたことに対する謝罪をしたのだと哀が理解してくれているので不満はなかった。
「まず一つ、お母様には上手く言ってこのまましばらく治療に専念すること。本当はよくないけれど学校も休みなさい。二つ、博士には説明してしまったから二階の部屋に移ること。ここでは体にあまりよくないわ。三つ、今度から仕事前と仕事後には寄ること。嘘も誤魔化しもなしよ、どうせばれるのだから」
なんだかんだと快斗の体を心配するための内容である。
「最後にひとつ、薬が必要になったらお願いするわ。実験体はこっちで見繕うから」
最後のひとつにマッド・サイエンティストの本性を覗かせた哀に、快斗は快諾する。哀が調合するものには劇薬で手に入れられないものも多い。それをどうにかするのなど、快斗には大して苦になることではない。
「それぐらいなら。それじゃ、ひとまず、部屋の移動から始めよう」
まだ痛む体を起こす快斗に哀は頷いた。
「少しでも破ったらお父様に加護を頼むといいわ」
怪我の所為だけではなく、固まる正直な体を快斗は叱咤した。
Fin
というわけで快斗治療編です。勿論女史が手当てをなさいます。なにやらラブい空気を撒き散らしているような感じも致しますが、哀快でも、快哀でもありません。そしてこの快斗は攻めですよ。可愛いですが。
なにやらいらなかったような気がひしひしとします。どうしてこんなに長くなってしまったのでしょう。おまけという長さを超えているような気も…。
ともあれ、哀ちゃん最強ですね。彼女に敵う人はいるんでしょうか。それより、新一は知らないのに哀ちゃんだけじゃなく、博士まで知ってしまったっていう設定の方がまずい気がする…。
2003/06/29