やさしき者たち。それは脆く、けれど確固とした守りのおもい。やさしさの結晶。
砂の盾
あの日から一週間が経った。
志保は隣家の住人が戻ってきたのをモニターで確認して自室を出る。いざというときのことを考慮して工藤邸の敷地内の様子は志保のところと工藤邸のある一室で見られるようになっているのだ。
途中でキッチンに寄ったらしく阿笠邸を出た志保の手には一人用鍋があった。門扉を潜らなくとも工藤邸の玄関に行けるようになっている阿笠邸からの直路を志保は通り、玄関に立つ。何をするわけでもないのに扉は迎えるように開いた。快斗が移住してきたときに新一がいないときの快斗の暇潰しとセキュリティーを考えて快斗が造り変えた鍵はドアの前に立った人間の個人データを自動的に読み取るものだ。故に、身内といっても差し障りのない志保などにとっては自動ドアの要領で勝手に招き入れられる。
「工藤くん」
リビングのソファにぐったりとした様子で座り込んでいる新一に志保は前と変わらぬ調子で呼びかける。
「よぉ、宮野」
彼はもともと線の細い人だった。
「ご飯、持って来たから食べなさい。話ならそれから聞くわ」
だが今は、そういった表現に収まる枠ではない。少々、痩けたような。
「ああ、食うよ。じゃないと快斗が怒るしな。あいつ、ちゃんと食えって、こういったことには殊の外五月蠅いし。……それに目ぼしい情報はねぇから。特に何か話すようなことがあるわけでもないからな」
そういって新一は自嘲的に嗤う。志保は鍋からシチューを皿に移しながら「そう」と呟く。
「仕様がねぇよな。快斗がそう簡単に見つかるわけがないんだ。どんな理由かは知らねぇけど、快斗が自分の意志で姿を隠したのなら、そう簡単に見つけられるはずがない。
あいつは天才だからな」
志保はもう一度「そうね」と言った。
この工藤邸で快斗が居たときと今と、見た目の差が最もないのが新一が食事を取るリビングである。キッチンからは快斗の分の食器が消えていたし、洗面所も同様。二階の快斗の部屋に至っては、そこでつい一週間前まで半年もの間も人が日常的に使っていたのが嘘のように綺麗に片されていた。それほどまでに徹底的に快斗の痕跡は工藤邸にすらない。
新一が食べ終わるまでの時間を志保は共に過ごすと阿笠家に戻る。そこで漸く志保は溜めていた息を吐いた。新一の夕飯に一緒にいるのと同じように、家に戻るなり深い溜息を吐くのも快斗が消えた翌日からの志保の日常に加わっていた。
あの日、夜中に近い時間にも拘らず新一が飛び込んできて、残された手紙を志保にも見せたあの日。
事ある毎に快斗が相談していた志保ならば何か知ってはいないかと、新一の微かな希望が否定されたあの日。
志保が目の前で絶望する恩人の新一よりも、同じ闇を、より深い闇を、何より新一の安全を望んだ快斗を、快斗の願いを選んだあの日。
あの日からの日常。
ドアに背を預けて志保はその場で座り込みそうな己を叱咤する。何とかキッチンまで歩き、鍋を流しの中に置いた。
蛇口を思い切り捻る。
水が弾け、跳ね、踊る。
「快斗……」
今日はやけに辛く、流しの縁を摑んでいた志保の手が滑り、彼女の体ごとずるずるとしゃがみ込んだ。
わかっていたことだ。
快斗がいなくなったとき、新一がどう動くかはわかりきっていたことだ。
快斗からパンドラのことを聞いたときから、いつかこうなるのを志保は知っていた。覚悟も決めていた。けれど、それでも辛い。
一切の快斗の手掛かりを失い、絶望と正気の狭間でそれでも必死に快斗との約束を守りながら生きている新一を側で見守るのは辛い。それでも志保はこの役目から逃れる気はなかった。誰が決めたのでもなく、志保自身で選んだこの役目から逃れる気はない。傍で見守れなくなった快斗の代わりを放る気はなかった。新一が無茶をしないでいる為の足止めを止める気は一切ない。
新一がこれ以上親しいものを失わない為にも。
志保自身がどんなに辛くとも。
「快斗………」
辛くないわけではなく、頼りたくならずにいられるわけでもない。彼女の都合では実行に移すことがなくとも。
志保は冷たい床に座り込んだまま再び名を呟いた。その志保の様子を見ればおそらく快斗は言うのだろう「女の人が体を冷やしちゃ駄目だよ」と。その口調と表情を様々と思い浮かべて志保は小さく笑う。
左手が無意識に耳に触れる。髪に隠れているカフスをゆっくりと撫でるように触れた。やさしい、いたわるような触り方。
「貴方からの連絡がないのは喜ぶべきことだと、嬉しいことだと思っていいのかしら…?」
快斗が消える晩に、彼は新一の家を出る前にきちんと志保の元に寄っていた。志保が開けたドアの前には遣る瀬無いような、諦めたような表情をした快斗が立っていた。微かに腫れた目元は彼が僅かに涙したことを示していた。
志保は悟る。彼が来た意味を。これから来るものを。これから起こることを。
「後を、頼むね。志保ちゃん」
その言葉と共に手を重ねられる。志保は何かを掌に乗せられたのを感じて、快斗の手が離れるとそれを確認した。
「……カフス…………?」
「の形した携帯。俺に繋がる唯一の手掛かりだよ」
「え?」
柔らかな眼差しで快斗は志保を見る。
「志保ちゃんにはいろんなものを背負わせちゃって本当にごめんね。
それは志保ちゃんに俺のこと話した後に造ったんだ。持ってるのは俺と志保ちゃん。あと、ひとりに渡すよ。多分、今の俺の存在を隠せるのはあいつだけだから、俺は一時的にかも知れないけどそこに行く。
それは登録してある人の声にだけ反応して機能するようになってるんだ。俺には101、志保ちゃんには4617。もうひとりのは1200。
志保ちゃんの手が必要になったら、俺はきっと志保ちゃんの迷惑も考えないで連絡すると思う。だから、志保ちゃんも手に負えなくなったら辛くて仕方がなかったら俺に連絡して?」
志保は快斗の眼を凝視する。覆い隠していたものを外した左右で色の変わってしまった眼を。色が変わったところで美しいままの右の夜闇の藍と左の鮮血の赫。
ただ黙って見つめられることに耐えられなくなったのか、快斗はわたわたと慌て出した。
「えっと、志保ちゃん?嫌だった?」
志保はふっと微笑った。掌に頼りなくあるカフスの確かな繋がりを握り締める。
「いえ、頂くわ。
私のことよりも、快斗の方が私以上に背負っているのだから無理だけはしないで頂戴。辛くなったら貴方の方こそ頼っていいのよ」
そっと、志保は快斗の頬を撫でた。快斗は志保のその手をとって目を伏せる。こうして藍とあかが隠れてしまえば彼は何も少しも変わらない。彼自身に変わりはない。いや、眼など閉じなくとも彼は変わらない。何時だって変わってしまうのは快斗の周りの方だ。
快斗が忌避してのはそれ。何時だって快斗を中心にまったく快斗と関係のない他者が目の色を変え、周囲に迷惑を掛ける。それが一番最初に起きたのは幼子というべき彼の出した異常な知能の高さ。ありとあらゆる機関がこぞって欲しくなるその知能の高さ。でも、今度のはその比ではあるまい。そんな可愛いものでは済まないくらいに大騒ぎになるに決まっている。知られでもしたら、既に知られているのなら、せめてこれ以上は巻き込まない為にも。
志保の優しい温度を受けながら快斗は言った。
「志保ちゃん、お姉ちゃんみたいだよね。頼れるお姉ちゃんってかんじ」
「あら、それなら快斗はそのまま弟ね。おばかな弟」
そのまますぎかしらと志保は小さく笑声を立てる。それに快斗はむぅとむくれて、けれど彼も幽く笑う。そんな和やかな雰囲気のまま、快斗は言った。
「それじゃあ、行って来ます」
志保は息を呑みそうになり、ふわりと笑顔を浮かべて送り出した。
帰ってくることを待つ言葉で。
「行ってらっしゃい」
そこにいた姿が瞬くように見えなくなったのは、そのすぐあと。
志保の掌のなか。カフスが月光を弾く。カフスに水が弾ける。
「ほんとうに、ばか」
彼は探す。かれに繋がる手掛かりを。
彼女は探す。かれを取り戻す方法を。
今宵も只管更けてゆく。
私が貴方のことで出来ることなんて何ひとつない。
けれど、貴方が望むのなら、貴方を覆う帳になりましょう。
貴方という清廉な魂を守り、隠しましょう。
貴方がその疵と向かい合えるまで。
だから、今は安心して休んで。
慧眼の魔人からも目隠ししているのだから。
風の動く気配にこの館の主が振り返る。腰まで届く長い髪がふわりと舞った。紅いロングドレスは、彼女の為に誂えたかのように良く似合う。事実、それは彼女の為の代物なのだろう。
十人いれば九人は間違いなく美人だと答えるきつめの美貌が彼を見る。
「あら、いらっしゃい。探さん。どうかなさって?」
「ええ、お久しぶりですね、紅子さん。ところで黒羽くんは?」
部屋のなかにゆっくりと視線を巡らせて問うが、矢張りいない。
「黒羽くんならさっきまで部屋に居たようだったけれど、庭に出たのかもしれないわ。私は別に彼を監禁しているのでも、軟禁しているのでもないから常に知りはしないけれど。お探しした方がよろしくて?」
どこか物騒なことを軽やかな声に乗せて言い、所作で紅子は白馬に席を勧める。一人掛けのソファに座る彼女の正面になるように白馬も座ると、そのタイミングを回廊で待っていたかのようにドアがノックされた。
「失礼致します」
この館の執事を務める妙に小柄な男が紅茶を乗せたカートを押して入ってきた。砂糖壺とミルクピッチャーをまずテーブルに置き、その場で紅茶を注ぐと始めに客人、次に主人へと差し出し、一礼をして扉の隣まで下がった。そこで微動だにもしなくなる。
「いえ、本人に伝えるよりも貴女に言伝を頼んだ方がいいのかもしれません」
白馬は優雅にカップを口元に運ぶ。
「あら。本人に直接言いたくないこととなると光の魔人のことかしら?彼のことだもの、さぞ頑張って黒羽くんのことを探しているんでしょうね」
どこか楽しげに、そして意地悪げに紅子は笑った。現代に生きる正当な血筋の魔女は紅みがかった黒髪を弄う。さらさらとした髪は彼女の細い指から逃れた。
「ええ。昨日、偶然、警視庁でお会いしたんですが、確かに聞かれましたよ。『快斗の行方に心当たりはないか』と。僕にまで訊くのですから相当切羽詰っているのでしょう。
それに、黒羽くんが工藤くんの処にいた頃と比べると矢張り、明らかに痩せてしまっていましたね。疲れたような感じが見て取れましたし。
黒羽くんの御実家や友人宅にも幾らかは連絡を取ったと彼は言っていましたが、貴女のところには、とは尋ねるだけ愚問でしょうね」
白馬は苦笑してカップをソーサーに戻した。その苦笑を艶やかな微笑で受け止めながら、紅子が脚を組み替えると、深いスリットから美しい脚が覗く。
「ええ、勿論。愚問ね。私の存在を黒羽くんは光の魔人に話はしなかった。そして、貴方以外の江古田の皆からは私の記憶は消したわ。彼に繋がるほんの少しの可能性も残せはしないのだから、下手な記憶はないに越したことはないですものね?
黒羽くんが私を頼ってくれるのはこれが最初で最後のことでしょう。私は彼を元に戻してあげることは出来ないわ。彼の一番の願いは、私には叶えられない。とても、とてもそれは屈辱だけれども、力及ばず、私はこの事実からは目を逸らすわけにはいかない。魔女とは不思議のなかに生きるのではなく、影・曇りを除いた世界に生きるものなのだから。
私は黒羽くんの盾になろうと決めたのですもの。
探さん」
詠うように紡いだ紅子の言葉は彼女自身を傷つける刃と化す。それは白馬にとっても同じ。だが、彼女たちは黒羽快斗という人間を知っていた。彼が世の人に見せている仮面の彼ではなく、彼自身、彼の魂とでも言うべき本質を間違いなく知っていた。
仮令、紅子が操る紅魔術で元に戻れるとしても彼はそれを良しとはしないだろう。一度魔術の恩恵を受けた人間が嵌る危険性。それを孕んでいると知っていればこそ、快斗は決してそれに深いところで関わるのを良しとしない。意識と無意識の両方で。だからこそ、紅子が出来るのは快斗の姿を目隠しすることくらいだけなのだ。それは、紅子の魔術を疑うのでも、存在を信じていないでもない。寧ろ、快斗が彼女は本物であると認めていればのこと。だから彼は魔に魅せられるも、求められるでも、魔を求めるでもなく、それに極力頼るまいとする。
紅子にとって、快斗はただの一瞬も己を失うことなく、一貫してその心を保っていられる、その存在は衝撃であり、愛しいものだった。どんなものよりも、きれい、なものだ。彼は何があろうとも紅子を真直ぐに、余計な付加もなく視る。紅子は快斗のその心に魅かれ、自らに於いて決めた。それは当然だった。
彼の為に力は惜しむまい、と。
彼の為ならば、要らぬ矜持は捨て、最善を見抜く、と。
「何です?紅子さん」
白馬も紅子と同じ想いを抱く者。彼のような家に生まれれば家の付き合いによる人付き合いを求められることが多々ある。白馬自身ではなく、白馬の家を求め、彼のように扱うものが増える。白馬自身でさえ、そんな煩わしい者たちによって彼自身を見失いかけていたときに、白馬は白馬でしかないと言葉にするでもなく示したのが快斗だ。あの江古田の面々でも初対面では戸惑ったのをまったく同じ態度こそがいいのだとやったように。
だからこそ、快斗が怪盗KIDだと気付いたとき白馬は遮二無二捕まえようとした。快斗が面白半分でやっているのならば、そんなことはさせてはならないと、そう思って。けれど、その最中に触れた快斗の信念の欠片。それから、白馬の行動は少しだけ変わった。誰にも気付かれない程度に。きっと快斗とこの魔女以外の誰も気付くことはなかっただろう。KIDを捕まえる、それの影に隠して少しだけ変えた、彼を狙う手を偶然に似せて払うこと。態度も立場も変わらないままに。
それは白馬の勝手なこうい。快斗もKIDも顔には出さず、苦笑いと共に、言葉に出さずに礼を言う、こうい。
「彼女は光の魔人の側に残っても、私たちの味方だと思わなくて?」
嫣然たる笑みを浮かべて確認する紅子に白馬は典雅な微笑で肯いた。
願うのなら、願わずとも。
君の為に、僕は僕のエゴで力を尽くそう。
心から笑う君をまた見たいと思うからこそ。
君を隠す盾の一片に僕もなろう。
Fin
続きそうな感じで終了。寧ろ、続かなかったらおかしい感じですが、ここで終了です。
すみません、akoさま。やっぱり新一は(あまり)出ませんでした。
そして相変わらず暗いまま。
この白馬はいい人の方向です。高校在学時は喧嘩友だちな雰囲気だけを周囲に出していましたが、実際のところそんなに仲が悪かったわけではない、みたいな。
ついでに、当て馬Hsの感情はバカットリは新一、白馬は快斗。というこのベクトルでうちのサイトは成り立つと思います。他の話にしろ、白馬が恋敵の位置に来るかは微妙。なんか、いい友人やってくれちゃいそうです。
この話に戻って。そういえば、快斗は現在の時間軸に出てきませんね。過去か、名前だけか。
色々捏造したような気がします。特に白馬のあたり。さらっと流してください。快斗がめさめさいい人ですな、コレ。いや、心根のいい奴だけど。なんだかんだで完璧に嫌うようなことはないだろうし。
「狂わしの紅」は続編を書くと始めからこうなるイメージが「狂わし」のときからあったので私には問題なしなんですが、リクしてくださったakoさまからしてみれば大変面白味に欠けた話なってしまったと思います。
こんな面白くも絡みもないうえに、これだけだとわからない話ですがよろしければakoさまどうぞお納めください。
更に続きを望む方はどうぞリクをしてください。その方が続きが出来る可能性が高いです。これの続きも頭に朧にはありますが、まあ、本人は続きがわかってるので、下手をすると私の脳内で完結して終わり(笑。えない)
akoさまのみお持ちかえり可。
脱稿03/12/23 改稿03/12/23