気づいた時。
世界はもう暗闇だった。
暗転
愚かしい己を嘲う声は弱く、けれどそれは響いた。そこにあるのは悲しみ、だったのかもしれない。どちらにせよ、傷つき過ぎた体も頭も半ば以上の機能を止めていた。
この状況を何と表せばよいのだろう。
無意味にそう思ったりもしている。実のところ、そんなものはどうでもいいのだ。例えば、縛られた手足が痛いとか、きつすぎて血が通っていないとか、だから冷たいとか。殴られ蹴られた体中に痣が出来ているとか、そのときに肋骨が内臓を傷つけたかもしれないとか、足が折られていて動けないとか。指、が、右の指が、何本か切り落とされた、とか。もう、マジックをするだとか、父を超えるマジシャンになるとか。おだやかに、微笑みながら生きていきたい、とか。
もう、どうでもいいのだ。どうでも良くなったのだ。
KIDは、KIDだったモノは快斗でもなくなっていた。それは自分の隣の妙に伽藍堂になっているのへ視線をやった。
つい数日まで、そこにいたのだ。それの、まだそれが彼と言えたときの言えなくなった今の、大切な、何にも変えられない至宝が。数十時間前までは拒否する拒絶の声が薄い壁一枚隔てただけの向こうから聞こえていた。それに数時間前までは変な、それでいて強力なクスリを盛られたらしい、必要以上に甘ったるい大きな嬌声が上がっていた。これを聞かせる為にわざわざ薄い、隣の声が聞こえる壁にしたのかと思うほどに。よがる、欲しがる、いやをする、強引に引きずり出された快感に泣く、助けを求める、心臓が潰れるほどに快斗の名を連呼する、新一の声が。
聞こえていたのだ。穢れきった男共の下卑た声と共に。
そして数分前。音を耳にするまでは。高く澄んだような、鈍く澱んだようなその音を聞くまでは。赤い血に塗れた、片方の綺麗な蒼の眼と頭部の一部を失った、全裸の、下種共の性に犯された新一を見るまでは。彼だったその躯を目にするまでは。
KIDは、確かにKIDのままであったし、快斗は他ならぬ快斗自身であったのだ。彼であるその眼が、その心が、侵されることも歪むこともなかったのだ。その瞬間まで。響いた銃音さえ限りなくゼロに近い別の可能性に賭けて。
KIDではない快斗でもない、KIDであり快斗でもある復讐者は、その時、確かに覚醒したのだ。KIDの理性と快斗の良心で抑えられていたKIDの惨虐さと快斗の狡猾さが。幼児の時分に行った知能テストにして400の値を叩き出し、悪魔であると言われた本性の一部が。大のおとなを恐怖の底に叩き落したそれが。
カウントが始まってから150を超えていた。
無駄だと、どうしてこの黒服の男たちは気付かなかったのか。KIDとなった快斗が、どうして最後の砦たるを奪われる服やらに隠しておくという愚を犯すと思ったのか。切り札の引き金は快斗との完璧な連鎖が必要だというのに。
発動の方法は2つ。1つは快斗がそれを選んだとき、それは復讐に染まり何もかもを許せなくなったときの彼の狂気の為に。もう1つは快斗の生命反応が絶たれたとき、黒服とパンドラにまつわる因習をすべて葬る為に。
快斗が求めた最後の呪いは、世界的法律上決してあるはずのない宇宙空間からの人間個体単位をも正確に狙える砲だった。さる国の機密から盗み出したデータの書き換えによってそれは快斗だけのものへと変わった。命令変更は快斗が口の中に嵌め込んだチップ、それ1つ。
だから、もう 止まらない。
変更のなかった命令は快斗がいる建物ごとどんな塵1つ残さずに消し去る。そして入力した黒服全てを屠るのだ。彼が造った学習能力を持った兵器という名の裁定者は漏れを許さず、同じように求めた者共を残さず喰い破る。主が願うそのとおりに。
快斗が組み上げたプロテクトもプログラムも、例えこの世の天才の全てを集めても敵うまい。それだけの知能と技術が、何より天才的なナニかがあるのだから、彼には。その最高とも最凶ともなる頭脳に。
愚者が受けるのはパンドラという愚かな女が開けてしまった負。世界に飛び散ったはずのそれがその女と同じ名の宝石を欲した者たちに降りかかる。ただ、今回の箱の底には何も残らない。希望なんてものは快斗の新一を踏み躙ったその時からもう何処にもありはしない。
希望は、失われたのだ。永遠よりも尚深く、遠く、暗い何処かへ。追いかけることも再び眼にすることも、手にすることは夢にも見ることのできない処へ。
300秒。パンドラ・ボックスが開かれた。止め止めのない悪意が溢れ零れ出る。
快斗でありKIDであったそれは低く嗤いの声を上げる。見張りの男たちが更なる危害を加える前に建物のどこかが壊れる音と恐慌状態になった人間が上げる声が響き渡った。考えも確認もする時間はなく、次々と神がしまっておきたかった災悪が降り注ぐ。人がつくった災厄は、悪魔の冷徹さによって解き放たれる。それに描かれる地獄絵図はどんな姿を曝すだろうか。慈悲と無慈悲とを渾沌させる悪魔は、神が如く見通す眼で印持つ者を滅ぼすであろう。
白い望みが視界を焼きながら快斗に戻っていたそれは哀しげな笑みを浮かべる。悪人であっても人を殺し、殺していく罪と業を背負った自分は死しても新一と同じ場にはいけない。
それだけがただ辛い。
自覚がないままに涙で顔が濡れていく。
白い光を見ていたはずなのに、快斗の世界は闇のようで。いや、新一を奪われたときから、もう彼の世界は暗闇で創造されていたのかもしれず、見た白の方が幻か。
それでも矢張り快斗は、冥い闇の淵へと沈んでいく。愛しい相手の嬉しそうに己の名を呼ぶその声と共に────。
Fin
2006/06/04 加筆修正