愛しさからなる  への憎悪











 形が揺れる。
 電波障害を受ける映像のように。
 末端が霞んで歪んだ。
「もうすぐ、か…」
 ぐ、と力を込めて手を握る。揺らめいていた指がきちんと人の形を取り戻したのを確認して彼は溜息をついた。
「所詮は夢物語というわけか」
 己を嘲るように、誰かを哀れむような声だった。



 深夜。
「リドル?」
 めっきりと寮を抜け出すのが上手くなったハリーの登場に、リドルは闇に溶かしていた意識を収束させた。
「どうしたんだい、ハリー?君が自分から連日僕のところに来るなんて」
 言外から珍しいと含ませて、リドルは笑みを浮かべた顔を傾げさせる。ハリーは見慣れてないリドルの姿のつくり方を食い入るように見ていて、問いに答えない。
「ハリー?」
 顔に掛かったさらりとした黒髪をかき上げつつ、訝しげにリドルは名を繰り返した。
「え、あ、ごめん。なんか、すごい珍しいから」
「きみが自分からよく来てくれるならそう珍しいものでもないんだけれどね」
 そうリドルは肩を竦める。ハリーが来ないときは省エネも兼ねて意識、つまり学生時代のこの姿は秘密の部屋の内に溶け込ませているのだ。
「でも、それにしてはきみの反応が鈍かったよね」
 リドルならば自分が部屋に入るなり姿をとるはずだとハリーは言う。リドルは苦笑でそれを誤魔化した。内心ではなんとも鋭いと思う。それともリドルのことをきちんと理解していると評すべきか。
「それで、どうしたんだい?未処理の明日提出の宿題でも思い出した?」
 揶揄うリドルにハリーは首を振った。確かに、ハリーの手に羊皮紙もインクビンも無い。パジャマの上にローブを着込んでいるだけだ。必要のなくなった透明マントは小脇に抱えられている。
 ふむ、とリドルは考えるようにして取り敢えず座るように促し、杖を振り、暖炉に火を入れる。暖炉やテーブルのセットもそうだが、リドルはいつの間に杖を手にしたのだろうか、とハリーは思う。今更と云えば随分今更な事柄なのだが。
「それで宿題じゃないなら、どうしたんだい?ハリー。僕に会いたかった?」
「うん」
 甘やかな揶揄いにハリーは迷わず肯く。これを逃してはならないと心の奥底から囁く声がするのだ。
「なんだか、酷くリドルに会いたいと思ったんだ。会いに行かないと後悔する気がして」
 不安げな様子を覗かせるハリーにリドルは内心の動揺を押し隠してやわらかく微笑む。
「それはまた、熱烈な告白だね」
「ねぇ、リドル。何かあるんじゃないの?何か、僕に隠しているね?何を!」
 言葉に揶揄いを混ぜても、ハリーはそれに引っかからず、ただリドルに責め寄る。逆に何かを勘付いたのか、リドルの胸元に手を伸ばした。
「何を。何があったの、リドル」
 襟元を摑んで間近に引き寄せた紅眼を睨みつける。嘘も偽りも許さずにすべてを見通そうとするかのような子どもの手を宥めるように叩いて、リドルは笑ってみせる。
「何もありはしないよ。ハリー。誰もここに居る僕に気づかないだろう?消え去らなかった魔力はこの場に安定しているだろう?何があるっていうんだい?」
 まるで首を絞めるような勢いで服を握り締めるハリーの手の力は緩まない。寧ろ、力はより一層強くなったような気すらした。実際に生きて呼吸をしているのならば、息苦しさを感じたことだろう。生憎と記憶に過ぎない体では、一切そんなことはありはしないが。
「リドル」
「ハリー。大丈夫。何もない。何も奇怪おかしなことなんて、ない。世界は至って正常に動いているよ」
 ゆるやかに、おだやかな笑顔を浮かべてリドルはハリーの髪をゆっくりと梳く。髪が指に絡む感覚さえ愛しげに。
「リドル」
「なんだい?」
 暖炉の暖かさよりも余程熱を上げそうな眼で自分を見つめてくる相手に言うにはあまりにも恥ずかしかったが、彼が払拭したはずの何かが、まだハリーに訴えるのだ。
 離すな、と。
「一緒に寝てよ。今日は」
 きょとりとした表情を覗かせて、リドルは小さく笑った。
「勿論。今日だけと言わずにきみが望むなら明日も一緒に寝ようか」
 ハリーの眼鏡を外して瞼の上にキスをした。額に、頬に。親が子にするように、恋人にするように、惜しみない愛情を注ぐ。
「それはいらない」
「それは残念」
 ハリーは額をリドルに押し付けるようにして顔を隠した。離さないように片手でリドルの服を摑む。伏せたところで赤い耳は隠れない。
 それを見ながら応えたりドルの声えは楽しげに響いた。
「ちょ、リドル!」
 楽しげなリドルのその声にがばりと顔を上げたハリーに、もう一度やわらかく笑いかけてリドルはベッドを指差した。
「皆が起きる前に帰るんだろう?早く寝ようか」
「……本当になんていうか、きみって」
 拗ねたような声で何やら呟きながら、ハリーはさっさとベッドに上がる。この広い秘密の部屋にぽつりとある、グリフィンドールの赤と黄とは違う色合いの緑と銀のスリザリン色の寮のベッドは見慣れないようでいて、ハリーは自分が落ち着くのも感じた。もうすっかりと慣れた色だ。彼と共にあるのであれば酷く愛しい組み合わせだ。
「リドル」
 子どもが親を呼ぶようにベッドを叩くハリーに呼ばれてリドルもベッドに上がる。自分も一緒に横になり、暖炉の火を弱め、明かりも小さくする。
「おやすみ、ハリー。よい夢を」
 額にキスを落として眠る前の挨拶を。
「――――おやすみ」
 ハリーはリドルが何処かへ行ってしまわないようにぎゅと力を込めて服を握り締めた



 眠ることはないが合わせて目を閉じていたリドルは、ハリーが眠ったのを呼吸で知って目を開けた。いとけない寝顔と反してリドルの服を握る力は緩んではいなかった。
 不安が、彼をそうさせるのだろう。
「きみには本当に驚かさせられるよ」
 安心したように深い眠りにいるのだろう。話しかけるようなリドルの声にハリーは反応しない。
「だから僕はきみには嘘をつかない」
 実体などない体ではあるけれど、リドルはハリーを抱き締めて、姿を留めたまま眠りにつくように意識を拡散させた。



 すっと、引き起こされるようにハリーは目を覚ました。目の前にあるのは白いシャツと白皙の肌だ。喉元から首筋を伝って視線を上げていくときれいな寝顔にあう。
 名付け親もきれいな顔だったのだとわかるが、リドルはもっときれいな気がした。惚れた欲目かもしれないが。
「見詰めているくらいならキスでもして起こしてくれればいいのに」
 ゆっくりと紅い眼を露にさせてリドルは笑った。じっと見ていたのが照れくさいのか、ハリーは慌てて身を起こす。見下ろしてみれば、やわらかな枕に頭を少し沈めて小さな微笑を浮かべているリドルの腕はハリーが寝ていた方に伸ばされていて、見るからに“腕枕していました”な状態だ。
「起きていたくせに」
 顔が熱くなるのを感じながらハリーは言った。自分も起きながらリドルは笑ったまま応えない。
「さ。そろそろ寮に戻るだろう?」
 地下であっても陽が昇っていればわかるものだ。それもそれまでに何度も過ごしていれば。
「リドル」
 櫛を通しても直らないくせっ毛を指先で軽く直しているリドルをハリーは見上げた。結局は昨夜は煙に巻かれてしまった。大した話でもないだろうに現に今も流そうとされている。
 それでは駄目だと、そう思っているのに。
「ハリー」
 リドルは苦笑した。
「昨日も言っただろう?何も奇怪おかしなことなんて、ない。世界は至って正常に動いているよ」
 その言葉とキスに送り出されて、ハリーは部屋を出るしかなかった。


 気づくべきだったのだ。
 ハリーはそう思った。
 リドルが右手でしか触れてこないことを、疑問に思うべきだった。

 リドルは自嘲した。
 右手で顔を隠して自嘲した。
 左手の指先。末端は消え、手首から肘にかけて掠れたそれは直そうという意思に従わない。
 十分な魔力も既に無意味だった。


 その日も。その次の日も。その次も。もう何日も。
 ハリーはクディッチの練習で忙しく、リドルの元に訪れる時間を捻出できずにいた。
 毎日夕食近くまで練習をし、夕食後はたんまりと出される宿題に追われる。リドルの元に行ってやろうとも考えたのだが、親友たちに彼のことを話していないことを考えるとそれもできなかった。
 ハリーはじりじりと焦燥に駆られた。
「リドル」
 親友たちが各々の用事でたまたまひとりになったハリーは思わず名を呼んでいた。呼んだところで如何にもならないうえに、会いたい思いは余計に強くなった。長いのはありがたいが昼休みに女子トイレには行けない。いくらのマートルのトイレとはいえ、人に見られるかもしれないのだ。
「どうしてスリザリンは女子トイレになんか造るかな」
「それには同感だよ」
 嘆息交じりのぼやきに会いたかった相手からの同意が返り、ハリーはがばっと顔を上げた。
「リドル」
 半透明の幽霊のような姿で、リドルは隣に立っていた。当然だろうが、陽の光も風も彼を通り抜けていく。
「ここ最近会えていなかったから、会いに来てしまったよ。ハリー」
 困ったようにリドルは笑い、紅い眼を細めた。他の誰かの目には留まらない姿でリドルはハリーの隣に座った。陽の下で見るリドルは、やはりきれいだった。
「今日は、会いに行くよ。絶対。必ず」
 その姿に見惚れ、ハリーは正面に顔を戻した。いつまでも横を向いていてはおかしい。ここは昼休みの中庭なのだ。少し離れたところには人が居る。
「待っているよ」
 リドルはそう囁いて姿を消した。
「待っていて」
 ハリーは放課後になるのを待った。
 時間の進みはいつも以上に遅く、1分が1時間のようだった。のろのろと蝸牛のような午後の授業がすべて終わり、ハリーは弾かれたように教室を飛び出した。背後で親友たちが何か言っていたかもしれないが、気にはしていられない。1秒でも早く。
 人が居ないのを確認してハリーは3Fの女子トイレに入り、蛇口に彫り込まれた蛇に命令を下してさっさと滑り降りた。
「リドル」
 部屋に入るなり、ハリーは呼んだ。
「ハリー」
 ノイズ交じりの声が応える。
 本人には言わないが、ハリーが好きなリドルの涼やかな声、に、混じるノイズ。
「リドル?」
 嫌な予感が背筋を駆け下りる。ざっと血の気が落ちたように感じた。
 きっと今、自分の顔色は真っ青だろうと他人事のような思考がよぎった。
「悪いね。ハリー。嫌なものを、見せてしまった?」
 生身といって遜色のない部分と明らかに記憶の透明化してしまっている部分。失われてしまった部分。
「けれど、ごめん。どうしても、きみに会いたかったんだ。できるだけ、きちんと。できるだけ、長く」
 保ててはいない自嘲する声と、鮮やかな紅の哀しい眼。
「リドル!」
 手を伸ばす。ハリーが触れられる部分と触れられず、通り抜けてしまう部分。触れられたと思った瞬間、通り抜けてしまう。
 頬に寄せた手だけが、ぬくもりを感じているような。
「僕だって、会いたかった!」
 やさしく、リドルが笑う。歪みは大きく、非道くなる。
「ハリー。この世は須く順調だ。奇怪なことは正常な流れに戻っていく。
 何も奇怪おかしなことはなく、世界は至って正常に動いていくよ」
 魔力によってつくられたりドルの体は、足のほうから粒子のように散っていく。
 綺羅綺羅。と。
 彼をつくっていた魔力が、今。この時になって、唐突になくなっていく。瓦解していく。


 この世は、何も、奇怪なことはなかったように・・・・・・・・・・・・・

 世界は至って正常に動いている・・・・・・・・


 魔法界でありながら、魔法に依ったリドルを異物として排除の意思を強めているのだ。
「リドル」
 ハリーは戦慄いた。
 声は無様に震えた。
「きみに会えてよかった。ハリー。愛しているよ」
 おだやかに、できるだけおだやかに、リドルは言った。ノイズの混じった欠けたような声で、どこまで表現できたかはわからないけれど。
「リドル。待って。まって!」
 体が消えていき、手も粒子に変わって、舞う。
「あいしているよ」
 紅い眼が笑い、粒子が侵す。
「僕も!あいしているよ。まって。また、必ず。また、か……!」
 音の、ひとつも立てず。
 リドルはすべてが粒子に変わり、散り舞って、消えた。
 リドルに触れていたハリーの手にも、何も、残らない。何も、残っていない。
「また、かならず。リドル。会おう……」
 俯いて、ハリーは言葉を搾り出した。彼に伝えられなかった言葉も。伝えたかった言葉を。
 泣きそうだった。ハリーは、泣いてしまいたかった。何度目か知れない喪失に、心に何もなかった。間違いなく、本気で、離れることのない永遠を望んでいた。二度と失わなくていいように。リドルと共に生きていく手立てを、ハリーは探していたのだ。探していたのに。
 リドルの喪失にハリーの心と思考は悲鳴を上げていた。痛くて、いたくて。奪われたものがあまりにもたいせつで。
「かみさま…」
 涙が滲み、覚えず零れ落ちた、幼少より生活とともに馴染んでいた言葉に、ハリーは壊れた自動人形のように固まった。
 呆然と宙宇に視線を飛ばし、天啓を得る科学者か聖職者のように呟く。
奇怪おかしなことは、ない……?」
 思考が独立したコンピュータかのようにめまぐるしく動いている。
「何も奇怪おかしなことはない?世界は至って正常に動いている?きみがいないのに…?きみを奪っておいて…?」

 クッ。
 ふ、はは、ははは!!あは、ははは、ははははッ!!

 喉の奥で笑いが起こり、哄笑が溢れた。

 迸るような哄笑だった。それは狂笑だった。

 狂ったように、ハリーは独りきりの秘密の部屋で嗤った。

 腹を抱え、呼吸が苦しくなるまで嗤った。

 そして、嗤いは始まりと同様に、唐突に終わりを迎えた。
「この世界がきみを奪ったの」
 静かな、ハリーの声だった。先程までの狂ったような嗤いは嘘だったかのように、今の彼の声は落ち着いていた。過ぎるほどの落ち着きの、その差異は、逆に恐ろしくなるほどに。
「リドル」
 名を呼んでも彼の声はない。
 彼は既にいない。
 その存在は無い。
 亡い。
「どうして。どうして!どうして!!
 かみよ、あなたは…!!」
 地下の石造りの壁に阻まれ、隔てられた天に激昂した。
 音の無い地下の部屋に声が韻をひいて響く。
「どうして僕たちから奪う!!


















それに答えは無い。









             Fin





2005/07/21