姫と王子の憂鬱
幸せな寓話
御伽噺のお姫さま。
ずっと幸せだと誰が決めた?
秘密のかなに住む、秘密のひとは御伽草子の主人公のように変わらぬ世界で単調な時を刻む。
「ねぇ、リドル」
毎日のように秘密の部屋には訪れるものの、だからといって必ずしもリドルの相手をするわけでもないハリーは持ち込んだ宿題を終わらせる為の手を止めた。
「どうしたんだい、ハリー?わからないところでもあったのかな?」
リドルは読み止しの本に指を挟み、猫科の肉食獣を連想させるように、しなやかに、滑らかにハリーの隣に歩み寄る。
始めのうちこそかまって欲しいと全身でアピールしていたリドルもハリーが持ち込むのが宿題だけなのに諦めて終わるまでは大人しく本を読んだりして時間を潰している。姿を持たないリドルがどうやって本を持ったり、調達しているのかという点に関しては謎だ。特に知る必要はないだろう、とハリーもその点に関してはきれいに流していた。
この秘密の部屋に自ら足を運ぶハリーがリドルといることを嫌がってはいないのだから、宿題さえ終わればハリーもリドルとの時間を使い出す。リドルは早くそうなるように邪魔をしないだけだ。
ひょいとハリーの手元を覗き込んだリドルは流すような目で一瞥すると、空白がないことに首を捻りつつも、爪の形も整った、長い綺麗な指で一問指した。
「ハリー?これは違うよ。もう一度考え直して」
読んでいたようには見えないその時間でリドルは間違いを一つ指摘した。
「えっ?嘘。あぁ…うん。そか」
驚きつつも素直に見直して間違えて箇所を見つけると書き直す。
流石に腐っても元・主席だったということかリドルの指摘はいつだって正しい。本人談曰く『愛情表現』で意地悪が多いというのに、殊、宿題などの知識面に関わることについてはそういったことが一切なかった。これも本人談だが、知識は大いにこしたことがないという。それはどれほど長い時間を経ても決して無駄になることはない、と。
そんなリドルの信条なのか、わからなくて尋ねても解答を教えるようなことはなく、きちんと自力で辿り着けるように丁寧に手順を教えていく。それすらもできるだけハリー本人が気付くようにしていくわけだからリドルの前で宿題をするようになってからのハリーの成績は右上がりの一途を辿っている。ついでと称してその問題に関わる知識、より効率のいい方法などもそれとなく仄めかすのだ。先生に指されても正規の手順を踏んで答えるハリーの評価はよかった。そう、あのスネイプの授業であっても。
毎回毎回ハリー専属の優秀な家庭教師になるリドルは下手をすると担当の教師より教え方が上手い。たとえ、比較対照になるその相手がベテランであったとしても。
先生になったら、生徒に人気のあるさぞかしいい先生だろうなとハリーが思ったのは両の指の数を超えて余りあるのだ。少なくとも、あの素晴らしい外面の良さとこれだけの容貌を具えていれば女生徒の人気は計り知れないだろう。そんな考えもそれに付随するほんの僅かな嫉妬も決してありえないことだとわかったうえで、時に浮かび上がるそれは消えない。
「…で、こうっと。どう?リドル?」
緑の目を瞬かせ、自信ありげにリドルを見るハリーに先程の思考の影は見えない。けれど見えなければ気付かないのかといえば、この目の前にいる男に関してだけは何とも言い難くわからない。多分、読み取っている。
いや、確実に読んでいる。この、トム・マールヴォロ・リドルは。
けれど、リドルはこのことにはいつも何も言わない。今回もハリーの直した箇所を黙って見ると、彼の額に小さいキスを一つ落として笑った。
「正解。一度解いた問題はハリーも間違えることが減ってきたね。ちゃんと復習してるのかな?」
宿題が終わったのに合わせてリドルは、ハリーの隣に何処からか、もう一脚の椅子を取り出した。宿題中はハリーの邪魔にならないように離れたところにいるリドルは実は結構健気かもしれない。
「別に復習っていうか、聞かれるから教えるだけだよ。リドルには遠く及ばないけどね」
視線を逸らして言ったハリーにリドルは優しく笑った。彼はハリーが見ていないときばかり、そんな優しい顔で笑うことが多い。
「お褒めに預かり光栄だよ。それから人に教えるのは一番の復習になるからなるべく丁寧に答えてあげるといい。極東の島国の言葉では情けは人の為ならずって言うくらいだからね。
それじゃあ、ハリー。いくつか指すから説明してね。はい、これ」
一方的に告げられた勉強の再開と流されるままに消えてしまいそうな話題をどうしようかと思いつつ、ハリーは律儀に答えていく。ここで少しばかり曖昧だったものがきちんと納得した形で吸収される。
聞いた回答に満足そうに頷いたリドルにハリーは一つの確信を投げた。
「僕が苦手なトコばかり指したね、リドル?」
「まぁね。そうじゃないと意味がないし、お陰で理解できただろう、ハリー?」
ハリーの癖のある黒髪にリドルは手を梳き入れてその感触に楽しそうに目を細めた。
「ちょっと、止めてって言ってるだろ」
邪険にリドルの手を振り払おうとするハリーの行動など何処吹く風とばかりに無視をして、リドルは髪の一房にキスをした。
「いいじゃないか。僕は好きなんだから」
そんな傲慢と言っていい言葉を言って愛しげに笑うリドルにハリーは反撃を失う。いきなりの笑顔に上手く対処もできずにハリーはそっけない態度をとるしかないのだ。
いつもは意地悪げに口角を上げて笑うことが多いリドルのあの眼差しは反則に近い。嘘でもからかいでもない愛しさを映した視線など。
「それでハリー、さっきの本当の用件は何なのかな?」
ハリーが思わず気の抜けた声で問い返すとリドルは「あれ?」とでも言うように軽く首を傾げた。そこに先程ハリーを当惑させた艶はない。
「さっき、君が僕を呼んだだろう?つい癖で宿題を見てしまったけど、あの声は何か話があるときに君が出す声だよ」
「あるけど…」
ハリーが気付いてたのか、こいつは、とかどんな声だって言うんだよ、とか思う最中、リドルは優雅に足を組み替え、微笑を浮かべた。
いくらか逡巡したあと、ハリーは息を吐いた。リドルは完璧に待ちの態勢に入っているし、こうなれば彼はハリーが話すまで納得も諦めもしない。もともとハリーがリドルに訊きたい事だったのだし。
「リドルは御伽噺のお姫さまはあのあと本当に幸せになったと思う?」
「御伽噺というと、白雪姫、灰かぶり、眠れる森の美女とかの童話のお姫さま?」
例えに有名どころの名前を挙げて相互認識を確認してみると、ハリーは首肯した。
「幸せ、ねぇ?」
懐疑的な声さえも美しく、全てを弾き吸収する理知的な紅い眼を瞼の下に隠してリドルは思慮深げな表情で暫し黙る。
そうしてしまうとリドルはよくできた西洋人形のようで、ハリーは彼に再び命が宿るのを待った。硬質さを秘めたリドルの端正な顔はまるで神の造作によるもののようにバランスが取れていた。
ゆっくりと開かれたりドルの眼はその瞬間から確かな意思の光を湛えていて決して彼が人形ではないとを示している。勿論、ハリーもリドルが人形だと本気で思ったことは一度もない。ただ、そう思えるほどに綺麗なのも事実だ、というだけだ。
リドルはハリーに向けて口を開いた。
「幸せ、何じゃないのかな?彼女たちの時間はその“幸せ”な時に時間を止めているのだし。
あぁ。でもハリーが知りたいのは一瞬の無知なる幸福に浸っているお姫さまたちではなく、その後の彼女たちなんだったね。
あれが現実であるのなら、彼女たちは決して幸せではないと思うよ。ただ、彼女たちは物語の人物だ。紙に語られているだけの命でしかない。現実だったらと考えるのは意味のない、栓のないことだよ。“その後も、末永く仲良く幸せに暮らしました。 おしまい。”そう書いてある限り彼女たちは永遠に幸せだよ。
ハリー。これで答えにはなったかい?」
リドルの深い色合いを保ったままの目は優しさに彩られた柔らかい光でハリーを見つめた。ハリーは眉根を寄せたままのものの一応は頷き返す。とはいっても、納得できてなさそうなことは誰の目に見られていたとしても明らかだろう。
「ハリー、質問の意図を訊いても?」
リドルの声も今のハリーには聞こえない。リドルの言葉の端々にあった単語はそのままリドル自身さえも表すもので、それがハリーの耳の中で響いている。ハリーが眉根を寄せてしまったのはその為だ。乱れる心を落ち着かせようとして顔が自然と難しい表情で固まってしまった。
けれど、一度ハリーの中を侵食し、増殖した不安は言う気のない言葉をハリーの口から引き摺り出した。
「リドルは?リドルは僕に会えて幸せだというけど、その幸せってどんなもの?記憶の君と現実を生きてる僕では先にあるのはリドルが言ったお姫さまと同じような不幸だけ?紙に綴られたリドルにあるものは完結した幸せ?」
無意識にリドルの上着を掴んだハリーの手に己のそれを重ねて放させるとリドルは納得したように苦笑を刻んだ。年下の恋人を随分と不安にさせたらしいと。
一方ハリーは顔を歪ませる。放させられた手もリドルの苦笑顔も嫌な想像を掻き立てるのに十分な要素だ。
「なるほど。唐突で過去今までとの関連性のない質問の意図はそれだね、ハリー?どうしていきなり童話が出てきたのかはわからないけど、日記の魔力なしに存在できない記憶の僕と彼女たちを重ねてしまった?」
上着からは放させても、リドル自身は放さない手を強く握り直して、俯いてしまったハリーの髪にリドルはひとつのキスを落とす。
「ハリー、聞いてるね?僕にはお姫さまたちのことはわからないし、わかろうとも思わないけど、僕は『今』幸せだよ。君が信じられないと言うのなら何度でも言ってあげる。ハリー、君と一緒にいられるから幸せだよ。
彼女たちの幸せが永遠なのは誰もそれを変えないから。僕たちのは、僕が君を愛していることが永遠だから。
僕と君の時間がずれていくのはどうしようもないことだよ。僕はこの日記という媒介をもった仮初に過ぎないからね。
僕は君に会えてよかった。だから幸せなんだ。
昔、幸せという感情を嘲った僕が今はこんなにも幸せだと言えるなんて、可笑しなものだけれどね。
困ったな、ハリー?泣かないで欲しいんだけど。折角だからいろいろと教えてあげるよ。僕は君の笑った顔がいちばん好きなんだ。笑ってくれるだろう、ハリー?」
「泣いてない」
ハリーの言葉とは裏腹にぱたぱたと音がする。雨は降っていないし、降っていてもこの部屋までは聞こえない。リドルが泣いているわけではない以上、音源はハリーしかいない。そして、こんな音を奏でるのは涙の他はありえない。わかってはいてもハリーは認めない。
「ねぇ、ハリーにひとつだけ訊きたいことがあるんだ」
真剣なリドルの声がハリーの鼓膜を打つ。
「何?」
不機嫌な声を作り上げて、ハリーは問う。顔はまだ上げられない。
「僕がお姫さまなのかな?」
至極真面目なリドルの声はそんな素っ頓狂なことを言った。
「はぁ!?」
思わず、ハリーが相手の正気を疑うような声を出したとて、それもおかしくはあるまい。今までのシリアス調の会話は何処に消えたと言いたくなるような台詞だったのだから。もしくは、ハリーの苦悩は何だったのか、と。
それすらもリドルがほんの僅かな時間で考え、気付かれないように敷いた布陣だったのかもしれないが。
にっこりと笑って、リドルは反射的に上げたハリーの顔を、両手で頬を包むようにして捕らえた。リドルの発言に涙は止まったものの、まだ涙の跡残る目尻に口付ける。
泣いた所為で熱をもったそこに、体温の低いリドルの唇は冷たくて気持ちいい。
悔しいが、リドルの所為で動揺して、リドルの所為で落ち着いた感情にハリーはほっとする。
「そうだよ。だって、リドルの立場と似てるでしょ」
さっきはハリーの心を抉ったものも、リドルの告白故か、今は苦しくもならない。逆に、馬鹿馬鹿しいと思いながら、ハリーは意趣返しのつもりで言ってやった。リドルのこと、姫扱いは嫌がるだろうと思ったのだ。
だが、爆弾は再び落とされる。しかも、威力の増した爆弾が。
心なしかにこにこと楽しそうにリドルはその爆弾を投下した。
「それじゃ、ハリーからキスを貰おうかな。お姫さまは王子様のキスで目覚めると相場が決まっているものね?」
果たしてこれは、ハリーの理解が足らなかったのか、リドルが常にその上をいくような性格なのか。
「ちょ、ちょっと待ってよ!何処からそういうことになったんだよ!」
顔を真っ赤にしてハリーはリドルに怒鳴りかかる。立ち上がり、リドルの胸元を掴みあげ、絞めるように握り締めた。
「何処も何も、ハリーが言ったことだよ。君は僕がお姫さまだという。なら、王子様は君だろう?恋人同士なわけだし。
そして、言葉どおり、僕が御伽噺のお姫さまなら、ハッピー・エンドにはどうしたって王子様のキスがなきゃ」
余裕綽々の笑顔の主にハリーは大音声でもって答えた。
「終わりでもないのに誰がするもんか!!」
彼が気付くのはこのすぐ後。始めきょとんとした風情の美貌が嫣然とした笑みを浮かべたときに。
「僕はハリーからのキスを約束されたわけだね」
少年は真実にはまだ気付かない。青年が呑み込んだ言葉に気付かない。いつものように隠した青年から気付くことはない。
必ずしも、その日が来ると。
いつまで続くのか、本当は誰にもわからない、愚かで幸せな寓話たち。
どうせならば、彼の願いが終わるまで、その夢を紡ぎ続けていくがいい。
一切の綻びを見せないままに、彼が望む、幸せな幸せな寓話を。
いづれ訪れる、終わりの日まで。
Fin
誰が読むのか、リドハリ小説。ともあれ、書いた私は満足です。あぁ、でも、反応が怖いかも。
電車でちまちまちまちまと書き続けてたから、ちょっとつながりとかおかしいんですけど、気にせずに。
誰々はこんな性格じゃねぇ!というのも目を瞑ってくださいな。それは私がいちばん怖い。
全然書く気なんかなかったし、そもそもハリ・ポタ自体そんなでもなかったのに。と、あるところのがいけなかったんだ、きっと。腹黒いリドルがいけなかったんだ。私は腹黒い人好きなのに。
03/07/23