最近、彼女は思い悩むようになっていた。
「景麒。酷いとは思わないか」
自室より雲海へ視線を転じている慶東国国王、景王陽子は言う。
雲海もこちらで言うところの比喩でもなく、事実、雲の上に広がる海である。そこから透けて見える地上は、いまだに傷跡を残しながらも着実に緑へと変わっていた。
「主上。恐れながら意味がわかりかねます。何が酷いと思し召しか、仰ってくださらないのに私に何が言えるでしょう。
ですが、今はこちらの書状に目をお通しください。本日中に裁可を頂きたく参りました」
側に立っていた金の髪も美しい青年は表情も抑揚もすくなに返した。
この、王に仕える誰よりも王の近くにいるものは人の形はしていても人ではない。その実は、神獣で麒麟と言い、国号に雄ならば麒、雌ならば麟の字を付ける。この神獣、国に必ず1匹しか居らず、普通、全てで12匹の麒麟がいる。
陽子御座すは慶東国にて彼女を景王と号す。故に、青年の形をした彼の神獣を景麒という。
景麒の無表情に慣れているのか、陽子は己が僕のその様子に特に何を示すはなく、納得したようだった。
「ああ、そうか。そうだったか、すまないな。お前の、否、お前たちのことを考えていた」
卓に置いてある書類に目をやらない陽子に景麒は一つ溜息をついた。
「私たちと仰いますと、麒麟のことに御座いますか」
いきなりの話の内容に流石の景麒も多少驚いたようだった。
当然だろう。陽子が玉座に就いてから十年と少し。今までも突飛なことを言っては景麒や諸官を困惑させた彼女だが、麒麟について、というのは初めてである。
「そうだ。景麒、麒麟とは民意の具現だといったな。天意でもって王を選ぶ、と」
「左様に御座いますが」
陽子の言いたい話が見えず、景麒は曖昧に同意する。
陽子はまだ、雲海の、遙か遠くを見て動かない。
「麒麟のどこかに、これぞ王だという直感のように」
「はい」
景麒は静かに肯定した。
そこで陽子ははじめて振り返る。翠のうつくしい眼には憤りのような悲しみのような幾つかの感情が混ざった光が浮かんでいる。
「ならば何故だ?」
低く、低く声音は抑え、けれど、ばんと卓を叩いた力は声を抑えた反動のように強い。置いてあった墨を十二分に吸った筆が転がり、書状とは関係のない何だかの紙を汚す。
普段の景麒ならここで何かを言ったかもしれない。だが今は、景麒は完璧に陽子に呑まれていた。燃える炎のような王気に圧倒される。
「麒麟とは、天帝の意志を受け、王を選び据えるのならば、何故麒麟が責を負う?王が道を誤り独り倒れるのならばわかる。そこに何故麒麟まで巻き込まれなければならない?麒麟が天意によって王を見つけるのならば、それを王とするのならば、道にも悖る行いをした王と共に果つるべきは天であろう。選ばされたお前にある責とは何だ」
切るように、あるいは血を吐くかのように陽子は言い、叩きつけたままであった手をぐっと握る。女官が綺麗に整えたはずの爪すらも掌に食い込み、指の間から赤い滴が零れ落ちた。激しいまでの憤りが痛覚を麻痺させるのか、陽子はそれに気づかず更に力を込める。
「おかしいじゃないか…」
先程と一変して、陽子は弱弱しく呟き俯いた。
陽子の激しく強い先の言葉も何も、麒麟を思えばこそ。景麒は主のその心を受けてそうと気づかないほど小さな微笑をのせる。
「そのようなことを考えていらっしゃったか」
景麒の少しばかりの感情を見せた声が吐息の如く零れた。それは感情が高ぶったままの陽子には届きはしなっかったが。
それから暫し、王の執務室内を見渡していたが、記憶にあるとおりのまま特にこれといってなく、景麒は自分らしくないと感じつつも上掛けの内側の絹を細長く裂いた。握り締められた手を一言断って手に取り、開かせる。怨みのない血ではあるが、微かとはいえ直に触れた血にもその気配にも多少の苦しさを感じながら、先程裂いた衣を傷口に巻く。
陽子はそのときになって漸く自分の手の様子に気づいたらしかった。気づくと慌てて手を引こうとする。
麒麟は仁の生き物だ。そしてどんなに些少であっても血に酔い、病んでしまう。特に景麒は王のその性格と革命者とも云うべき性質故に血の穢れに触れることが多い。
「景麒。離せ」
逆に景麒はしっかりと陽子の手を摑む。
「その様なことをお思いになって悩んでおいでだったか」
嘆息するように、今度は陽子にも届くように景麒は声を出した。
「主上。私の目をご覧ください。話をするうえで目を合わせるのは最低限の決まりであり、礼儀であると貴女が仰せられた」
景麒は白さを増した顔色で陽子を見る。だが、不思議と景麒は苦しさを感じなくなっていた。陽子はそろりと顔を上げる。その様子には景麒に対する気遣いと気まずさが窺える。だが、一度目を合わせてしまえばそこには強さが戻る。陽子を陽子たらしめる覇気が戻る。
「天の理を私のようなものが何と言えましょう。天の考えることなど、わかるはずもございません。
ですが、恐れながら主上に申し上げます。確かに先王も主上も王であると私が思ったのは天意を通して示された王気故ですが、私もまた選んでいるのに変わりはありません」
きっぱりとした口調に今度は陽子が不思議そうに眉を寄せた。
「麒麟は天意を通して王を知ります。ですが、だからといって私たちは諾々と天意に従っているわけではありません。私たちも己の意思を持ちますので、王と初めて見えましたときは感じることも御座います。前にも申し上げたように思いますが、主上と初めてお会いしたとき、私は天を恨みました」
ふと、陽子は笑みを上らせた。自嘲のような表情である。陽子自身、当時の自分を振り返ればあるのは己を偽り続けたことの後悔であり、愚かで怠惰だった己を恥じる心だけだ。
今の己は、あれから少しでもマシになれたのだろうか。
「ですが、今ならばそうは思いません。貴女でよかったと思っております。
主上が道を誤ったのでしたら私は道を正すように進言致します。お忘れになられませんよう。王だけではなく、麒麟も国を成しているのです。主上おひとりで何もかもを負わないで戴きたい。共に負う為の半身であることを御忘れなきようお願い申し上げる」
握っていた手を離し、景麒は静かに礼をとった。
「私たち臣が居りますことも主上は覚えておいでですか?」
いつの間にか加わっていた新たな人影が閉めた戸を背にして穏やかな顔で自王を見つめる。初勅で以って伏礼を廃した彼女に頭を下げた後、無断で部屋に入ったことを短く詫びた。
「浩翰か」
気にするなと示すと、怜悧な冢宰は礼を述べ、涼やかな声で続けた。
「台輔が仰いましたように、国は王のみで成り立つものでは御座いません。更に補足させて頂きますと、国が国として存在するのには民が要ります。民が健やかであるには正義で以って事を判ずる官吏が要ります。そのような官吏は正しき王の下に集まります。王がその質であり続けるには信の置ける官を身近に設け、その言葉に耳を傾けることが要ります。国は国に住むものすべてで成り立ち、王と官と民が正しい、つりあいの取れた関係を保っている状態であれば円滑に成長していくものです」
「ならば、私は幸せな王だな」
ふ、と呼気を漏らすようにして陽子は浩翰と景麒に目を向けた。
「民は活気を取り戻して、土地は徐々にだが確実に実りを増やしている。私はまだ至らない愚かな王だけれど、浩翰のような官が側にいる。
私は幸せな王だ」
噛み締めるように言う陽子に浩翰は愛しむ、慈しむ眼差しで口を開いた。
「私は、貴女が王だからこそ、王宮に参上したのです。そして、私が側に居ります限りそう簡単に貴女に道を誤らせるような真似は致しませんので御安心を。ですので、国滅ぶことばかりにお心をお向けになりませんようお願い申し上げます。
もし、貴女が道を誤るのなら、私がお止め致しましょう。それでこの命を賭すことになりましょうとも」
「それは、浩翰を死なせないように気をつけなければな」
陽子はやわらかく笑んだ。
おまけ
「さて。主上のお心も落ち着かれたようですので、こちらの書状にお目通しを願えますか」
にっこりと笑み、国外にも切れ者と知れ渡り、賢王と名高い大国の王をして対等の会話をする冢宰が差し出す。
「こちらには裁可を」
かわらずの無表情で景麒は卓上を示した。
「確かに。そう倒れることはなさそうだ」
陽子が苦笑いの顔でひとつ息をつけば。
「当然です」
声の合った二人に陽子は晴れやかに笑った。
Fin
初・十二国記。慶国。前作のは突発だったので、あれは実質3作目。2作目は雁ですが。私は慶がいちばん好きです。陽子好き。
この話、景麒最後のほう影薄いですね。浩翰のほうが好きなので仕方がないと言えば仕方がないかな。でも、浩翰の話し口調ってよくわからないんですが。
あ。浩翰が言っていた国云々は私の勝手な言葉なので、それは違うだろと思っても、黙認の方向で。だってわからないし。
でも本命は利陽なんですけど、同士いないかな。上手いこと本編で出会ってほしい。
拙いものですが、お楽しみいただけていたら幸いです。
2005/02/09