ぜいたくないたみ
ぜいたくないたみ
しとしとと、雨が世界を覆う。静かに冷え込みを連れて、忍び寄るように雨滴が室内に入る。
秋霜
呟きがほつりと落ちた。ひんやりと空気と混じり合うことなく、淋しげな声が沈む。
整えられた部屋からぼんやりと庭に目を向ける。我儘を言って、空気の入れ換えの間だけ得た赦しだ。
風邪のひき始めに休みを言いつけたのは自隊の隊長だが、心配掛けないように隠していたのを告げたのはやさしい副隊長で、過保護にも火を入れた部屋に閉じ込めたのは、まだコミュニケーションがぎこちない義兄だ。
考え得る限りの幸福が今、ここにある。
絶望の底に一度叩きつけられたものの、引き上げられた先に広がっていたのは怯躯しそうなほどの幸福だ。
「何だ、起きていたのか」
気配もさせずに部屋に入った日番谷は、身を起していたルキアに眉を寄せた。夜に袿を掛け、布団の中にいても細く障子を開けていては意味がない。そのうえ、別の上の方で換気をしているらしく冷気がこんなにも忍んできては余計に寒いだろう。注意に開きかけた口は、けれど何も言わないままに閉じる。訪う前に聞いた話を思い出したからだ。
「ほら。せめてちゃんと布団に入って横になれ。よくなるもんもなれねぇだろう」
微苦笑を浮かべてやさしい声で促せば、ルキアはきょとんとした表情で従った。どうやら怒られるものと覚悟を決めていたらしい。
その様は小さく笑いながら日番谷は枕元に座る。翡翠の眼がやわらかに見つめてくれるのに背を押され、ルキアは未だに実感の薄い言葉を発した。
「冬兄上」
「どうした、ルキ」
己よりも年若い年少の姿を兄と呼ぶことも不思議だが、彼が返してくれる“ルキ”という名にほっこりと安らぎを覚えるのも不思議で、けれど不思議なほどに違和感はなかった。
寧ろ、絶対の安心感がある。
「話を、お話をしてください。目が覚めてしまって眠れませぬ」
つい、と着物の袖口を引いて幼子のように強請る。死覇装を脱いだ日番谷は、貴族の令息に見える。
ルキアの様子に在りし日を思い出し、くすりと笑んだ日番谷は、彼女の小さな手を己の手のなかに隠して、そうだなぁと呟いた。
「ルキ」
「はい」
容易く示される家族の親愛に少しばかりどきどきしながら、ルキアは兄である、と理性より感覚が知っている兄を仰ぐ。翡翠はどこまでもやさしくて、慈しまれているのだと無条件で知れた。
「お前は朽木白哉の義妹であるけれど、実際に親族なんだぜ」
とんとん、と軽く手を揺らして話を続ける。声音はおだやかであたたかで、きっと、こうして遊んでもらっていたのだと、すんなりとルキアは思った。
「元々、四大貴族は王族へ嫁げるから、その意味じゃ俺たちは夜一とも親戚と云えるんだが。
ルキのお祖母さまは朽木の直系長姫だ。彼女が嫁いだのが時の陛下の弟君で丞相になられた方で、ルキの母君はそのご息女なんだ」
驚きに息を呑んだルキアの頭をゆっくりと撫でた。長いこと見つけられなかった彼ら兄弟が守ろうと誓った最愛の妹だ。降り注ぐ星の如く、幸いあれ。
「赤の他人にしちゃ似すぎていて、不思議だったろ」
又従兄妹だったか、関係を表す名は遠いが、血の源泉は近くも濃い。“朽木の兄妹”にはそれが濃く現れている。
「では、姉さまも?」
いや、と日番谷はゆるく首を振った。軽く伏せられた目は長い銀糸の睫毛に隠されたが、見上げるルキアには隠せぬ悔恨が見える。
「緋真は朽木の分家筋だ。ルキの母君が入内するときに侍女として入って来たんだ。まだ、稚くて遠からず生まれる子どもの遊び相手としてだと今ならわかる。
紫苑さまは、聡明でうつくしく、公平な方だったよ。ご正室として上がられても遜色のない、相応しい方だった。だが、政権の腥臭の似合わぬ方でもあった」
父上の寵愛を受けるのは当然だった。
記憶にない母のことはルキアにとってよろこばしかったが、それによって、日番谷が苦しむのは嫌だった。話を強請ったのは自分だが、そこまでして聞きたくはない。今いてくれるこの兄とまだ会えぬ兄と朽木の兄と、それで充分だとルキアは思う。多くを望みたくはない。
「冬兄上」
握り返す力に日番谷ははっとした表情で瞬いた。包みこんでいた手がいつのまにか、日番谷を案じるように握りしめる。成長は侮れないと眉尻を下げる。守りたい妹は守る力を身につけている。他を思いやる心を知っている。
「そうだな。詳しい話はルキが元気になった後にしよう。いつまでもお前を独り占めしては俺が兄上に恨まれる」
ふ、と力を抜いた日番谷にルキアも安堵し、違う話題を探し始めた日番谷にこれだけは、と口を開いた。
「冬兄上も、兄上も、私が生まれたことを喜んでくださいましたか。母と父は」
今を逃せば二度と聞けない気がした。至尊の地位を継がねばならなかった、兄と呼ぶ人には聞えてほしくなかった。彼が望んだものではなくても、彼の存在が他の兄弟をおとしたのは確かなのだ。
「勿論だ」
驚いて、日番谷はやさしくやさしく笑う。いとしいという笑顔はこういうものを云うのだ。
「紫苑さまは当然、父上もよくルキの顔を見に来ていた。俺と兄上は俺達でお前を守ろうと盟って紫苑さまに誓ったよ。ルキ。お前のしあわせを必ずや守ると、
お前は愛されているよ」
昔も、今も。
ぼろりと。
唐突にルキアの眸から泪が零れた。
何かが溢れたように。何かが壊れたように。ルキアの大きい琉璃紺から涙が零れた。日番谷は先ほどと違って驚くこともなく、やさしく指でぬぐう。
これまでのルキアに降り積もったかなしいものが少しでも多く流れ去ればいい。
最近はうれしいことが多すぎて、よく涙が出る。それでも、これに勝るものはないとルキアは知った。
「泣きすぎて、いたいです」
だからこそ、笑って言った。笑って痛いと訴えた。うれし泣きのしすぎで痛いと。
日番谷は軽く笑うと包むようにしてを再び軽く揺らした。
「ぜいたくな ことだ」
Fin
王弟日番谷設定。を水鏡シリーズと称します。
ルキア嬢に云った後の日常の日。でも、お互いまだ十番隊隊長と十三番隊隊員。ルキアは一度王族に迎えられたら戻れません。ヒツは仕事とか護廷の状態によっては暫くこのまま。
さすがに白哉には二人の本当の身分が伝えられています。次の話がそれです。
とはいえ、ここに彼がいないのは二人に遠慮したのではなく、単純にまだ仕事中。日番谷は終わらせてから来ました。このひとは相変わらず、驚異の仕事力です。
設定上、ルキアの母親の名前を決めなければならなかったので、紫苑としました。他にいいのが浮かんだらそれに変えます。
09/08/19