それはまさに一瞬のこと。
そう形容すべきものだった。
何気ない日常の一角。常々相手の行動に苛つかされていた彰は、何とか激しくダメージを与える方法がないものかと考えていた。
だが、頭の構造がそもそも違う相手のこと、考えるだけ無駄という極めて建設的、且つ正しい見解に達するに至るのにかかった時間は考え始めて僅かに5分弱。あまりにも短い時間であるが、それだけそれの頭の構造はある意味シンプルにできていた。
彰がそれまでの方法で耐える馬鹿馬鹿しさに我慢がきかなくなったのはつい先ほどのことである。だからといって5分より前にそれがあったというわけではなく、本気で日々の鬱屈のみのために行動を起こすと決めたのだ。まぁ、他者から見れば、あれだけ景気よく返り討ちにしておいて鬱屈が溜まるものなのかと疑問に思うだろうが。
決めたからには彰がすることもひとつだけ。頭の構造がシンプルであれ、複雑であれ、攻撃ポイントは弱点と決まっている。そして、古今東西、弱点というのは執着しているものであるケースが多いというのも真理だった。
壁に掛かっている時計を何気なく見て確認。そろそろだと聴覚に集中しようとしたときにカウントダウンも始まった。
―――30秒―――
「克己。お前も何か飲むか?」
椅子から立ち上がり、ドアの前になって漸く振り返る。給湯室に行くことを告げた。
―――20秒―――
「ああ。そうだな、なら…。いや、やっぱり俺も行くよ」
別に頼むことに気を使うような間柄ではない。寧ろ普段なら積極的に些細なことは頼んでいる。だが、克己はドアの前で立ち止まり声をかけてきた彰に一度は頼もうとして結局は止めると自分も彼の方に近寄ることにした。
それは、いつもより皮肉げでどこか楽しそうな、これから面白いことが起こると知っているような笑みにただ単純に興味が惹かれただけかもしれない。
―――10秒―――
にやっと。口角を上げた彰がすばやく克己に寄った。
―――8―――
ドアの半ばの距離の場所。彰は克己の片手を取り、足をかけて倒す。
―――5―――
尻餅をつくように倒れた克己を床に押し付けるように彰は馬乗りになる。
―――3―――
つかんでいた手を離し、代わりに肩を抑える。克己は手から肘までを床につけ、何とか上体を軽く起こし、少しばかり眉を顰めて文句を言おうとした。
だが、常とは逆とはいえ、視線を合わせれば彰の心積もりは克己の中にすんなりと当然のことであるように落ちてきた。
彰の唇が動く。
―――1―――
そうして浮かぶ、酷く艶やかで、あまい毒を含ませた微笑。それにつられるようにして、少し困ったような嬉しいような眼差しが彰に向けられた。
「せっんぱーい!」
例によって例の如く、バカな駄犬改め彼らの後輩が遠慮なく、思い切りドアを開けた。勿論、ドアの内側の様子など知らないままに…。
誠はいつかの日のようにぱっきりと固まったのだった。
そう、彰と克己が各々表情を浮かべた直後、誠はドアを開け放った。そうなるように仕組んだのは当然のこと、実際のところ結構な性格をしている――一人は明らかにいい性格の主だが――先輩ふたりの画策である。学習能力のなさは誠の駄犬っぷりをよく表している。最も彼は「半年も前のことなんて覚えてられるか!」と吠えるかもしれないが、半年そこそこのインパクト最強の出来事を覚えていられないのは十分に問題だ。
何よりも、いかに仲のよい人のだとはいえ、他の人の部屋をいきなり開けた時点で彼の負けは見えていた。
彰は背を向けていた。そうなると見えるのは克己だけだ。それでも普通なら覆いかぶさる状態では彰の更に奥、廊下の誠から克己の表情は見えない。だが、それはやりようというものがある。確かに彰がまるきりドアを背にしてしまえば何も見えなかっただろう。ただ、彰はそうはしなかった。ドアから少しずれた、斜めからこちらを確認できるような位置でやったのだ。別に前もって綿密に立てたのではないというのに、上出来すぎる構図におさめてみせた。
そう。だから誠には克己の表情がよく見えたのだ。
少し困ったような顔だった。
自分より上にあるかぶさるような彰の眼に合わせていたのだろう。上目遣いのように見ているような感じであった。両腕で起きようとしている上体を支えていた。
逆に殆ど見えないのは彰の顔だったのだが、よく見える必要もないと言い切れるほどに雄弁な彰の口元の笑みが見えた。最上級に妖しい、そして優しい形に刻まれた笑み。何よりも大切でいとしいのだと囁くようにさえ見えた。
その為であろうか。
克己が自身の体を支える力を抜き、彰の背に腕を回す。支えを失った克己の上体は重力に導かれるままに後ろへゆっくりと倒れていく。当然、克己の肩に手を置き、背を克己の手に捕らえられた彰も克己の上に重なるように倒れていった。
彰の笑みはいっそうの深さを増し、克己は幸せなそれへと表情を変えていった。
ふたりは自分たちの部屋のドアが開けられていることなど、気づいてもいないようだった。ふたりだけで閉じた世界にいるかのようであった。
伏せられていく睫。
どんどんと近づいていくふたりの顔。
今度は声を出すこともなく誠は思い切りドアを閉め、ばたばたばたッと駆け去って行く音だけがした。
「あー。マジに危なかった」
寸でのところで閉められたドアと一瞬の差さえおかずに彰の手が克己の顔の横でその体を支えた。
まさに危機一髪。
彰はその体制のまま顔だけを横にずらして克己の肩口あたりで呟いた。それが先ほどの台詞である。
克己も動かぬまま大きく息を吐いた。ふたりとも表情にさっきまでの雰囲気は欠片もない。誠の撃退および揶揄いという共通の目的のためならこれぐらいの演戯は逆に楽しんでやってみせなくもないが、本当にするのは絶対勘弁である。
のろのろと彰は体を起こし――間違っても、滑って接触が起きないようにかなり慎重に――克己の隣に寝転がった。彰は漸く息をついた。危機は無事脱出である。
「それにしても彰。前もって何か言っておかないか?普通は」
「仕方ねぇだろう。何かしてやろうと思ったのだってついさっきなんだしよ」
真っ白な天井を見上げている二人の声は疲れと笑いが見え隠れしている。本当に、よくぞかかってくれるものだ。
「前にやってから余計に酷くなってやがるしよ。なら逆でやってやろうぐらい思うだろ」
俺の苦労も考えろ、とでも言うような言い方に克己は苦笑した。
確かに過剰の一途を辿った誠のスキンシップに対して彰の攻撃もまた、手加減がなくなってきている。しかも誠を打つタイミングが早くなっているのだ。
「まあ…仕方がないかな。俺も協力したし」
ははと笑う横で彰が大きく頷いている。
「それでも、やっぱり何か言ってほしかったぞ?おかげで腰が痛い。ちゃんと言ってくれればもう少しましな受身だってとれたのに」
「何だよ。なるべく支えてやったろう」
文句が抜けきらない克己に彰が少々憮然とした声を出す。
「それともよくなるまで面倒見てやろうか?」
にやっと笑い、覗き込むように問いかけた。
「丁重にお断りするよ。代わりにこれからもしっかりガードを頼むぞ?」
こちらも人の悪い笑いで返すのだった。
「九代の奴、きっと親の仇に会ったようにでもなるんじゃないかな」
何しろ前回とは違い、彰が克己に迫って押し倒した形なのだ。一応克己からも彰を促すような行動をしてみはしたが、それをどこまで誠が意識に入れるかはわからない。きれいさっぱりそのあたりのことは封印するかもしれないのだ。
「けっ。あんなバカ、俺に敵うわけねぇだろ。…っと。で?何飲むんだ、お前」
勢いよく起き上がった彰に上体を起こし、ベッドを背もたれ代わりにした克己が今度は注文を入れた。
「それじゃあ、久々に彰の入れるコーヒーでも貰おうか」
時計は優に逆L時を回っていたけれども、ふたりとも優雅に足を組んで、寛いで。
ティータイムならぬ、コーヒーブレイク。
Fin
と、いうわけで罠の101風でした。
今回は拓巳の出番がなかったのが非常に残念です。この子がいたほうが断然楽しいのに。いじめ具合が違って。でも、拓巳が出ると本格的に差がなくなってしまうから、よしとしましょう。こっちでも、ふたりはえっらい仲が良い親友止まりです。
パート1とパート2、どちらが妖しかったんだろう。
が、当時のあとがきでした。
このような話ですが、楽しんでいただけていれば幸いです。
2006/06/12