昭平が、―――敵なのに―――謝罪の言葉と共に消えて、暫くは健太の荒い呼吸音だけがあり、彼が落ち着くまでの時間を克己は静かに待っていたのだが、それよりも健太が先に慌てて駆け寄った。
「だ、…だい、丈夫…っ、大じょ…だいじょぶで…大丈夫で…」
可愛想なほどに青くなって、単語すら上手く操れず、何度となく言い直す。
「大丈夫だ。健太、まず落ち着け。ちゃんと意識して呼吸して過酸素症状が起きるぞ」
そう宥めようとするが、とてもじゃないが落ち着けるものではなかった。健太は克己の状態を忘れていた。
そのことであんなに怒り狂ったというのに、途中から体中を駆け抜ける奔流に忘れてしまった。健太は決して思い出したわけではなかった。ただ嗅ぎ慣れない、そして嗅ぎ慣れたその独特のにおいがしただ。まだ戦意の消え切られなかった頭に思いきり。
「健太、落ち着くんだ。ここできみに倒れられると困る。今の俺はきみを連れて帰られない」
珍しく厳しさを含んだ声が、健太を打つ。
「あ…」
しっかりと頭の回転しだした健太に笑いかける。
「さぁ、帰ろう。皆が待っている。あ、ついでに残りの食料だけは持っていこうか」
切られた箇所を力強く握ったまま、できるだけ安心させるように笑った。
鼻孔をくすぐる血臭に全員が入り口を見る。
「ただいま」
「おぉ。せやけど遅かったなぁ、何事かあったん?」
「あぁ、俺にもよくわか…」
「それより! 早く手当てをしてください。北沢さん!! 中に…」
にこやかに似偽くさい笑顔で会話をする克己と京介を健太が強引に遮り、中に入れようとする。克己は入り口からそれなりに離れた場所にいて、健太のその姿を困ったように見下ろしていた。
「北沢さん…!!」
必死な声音に、押し殺した声。
「そこでいいんだよ。んな血の臭いをさせてる奴、連れ込んだら、それこそいたとき餌食になるぞ。お前も景気よく切られてんじゃねぇよ」
「当に出血大サービス」
京介がボソリと呟き、竜馬に睨まれる。
幾らかの薬草を手に現れた彰に健太は謝った。
「すみません。北沢さんは悪くなんてないです。俺が、俺の所為で、俺がぼんやりしてたからなんです。北沢さんは、北沢さ…んは俺をかばって…だから…」
勢い込んで言い出したが、途中でおかしくなる。彰を見上げる健太の目の焦点が曖昧になり、狂いだす。その様子は光を失った人間のようで、
「俺をかばって。俺がドジで、気が…つかない、ダメな…ダメ…な…。だから、俺を北沢さ…が。で、怪我して……」
奈落に落ちるように、壊れたレコーダーのように繰り返す健太に、
「てめぇ、バカか?」
心底馬鹿にしきった口調に健太は反射的に顔を上げた。
「コイツの怪我は、こいつの自己責任に決まってるだろ。例えお前が言うようにこのバカがお前をかばってした怪我でも、怪我するとわかってこいつはお前をかばってんだ。そんなのがお前の責任になんかなるわきゃねぇだろ。このバカの責任をお前が負う必要なんかねぇんだよ。それとも」
見下した目の言葉かと思ったそれは、真剣な目だった。それが少し変わる。
「お前はこいつの全ての責任が自分にあるとでも思ってんのか?」
「ま、さかっ」
「だったら、お前が気にすることねぇんだよ」
「……はい」
頭が納得しても、心が納得していないそんな表情がありありと表れている声に彰は溜め息をつく。
彰が着くなり座れと言った為、大人しく座っている克己を見下ろし、もう一つ溜め息。
克己の表情は何も変わらない。青白い、困ったようではあっても笑顔。
彰は忌々しげに舌打ちしかけ、思い留まる。今そんなことをしようなものなら苦労が水の泡だ。宥めていた彰然り。笑っていられるはずもないのに無理をして笑っている克己も又然り。
「仕方ねぇな…。なら、これ採ってこい。足らねぇと笑える」
そう言って彰が押しつけたのは何かの葉。
「お前が納得しきれてねぇなら、それ採ってこい。使う」
端的な命令に、健太はパッと顔を上げた。黙って走り出しそうな健太の肩を掴む手。
「待って健太くん」
健太を驚いて手を振り払おうとしたが、それより先に浩多は手を離している。
「行くのなら竜馬さんを連れて行ってくれる?」
にっこりと笑う浩多と、
「ほな、しっかり採って来ぃや」
竜馬の背に乗りかかったかと思うと、京介は背を押し、送り出す。
「行こう」
促す竜馬と健太は京介から渡されたたいまつを持って行った。
ふぅ……。
空気を小さく振動させた克己の吐息。
「彰さん。これ水です。僕と大輔さんで清水を見つけたんですけど、京介さんと汲んで来ますね。近いんですよ。…じゃ何かあったらお願いしますね」
ちらりと一瞬走らせた視線には、血の気が失せ始めているように見えた。後半を英明に投げ掛けると、ゆっくりとした肯定が返る。
「では」「行ってくるわ」
二人が立ち去った後、英明はさて、とでも言うように口を開いた。
「俺たちは戻るけど、何かいる?」
「奥に運んどいたヤツ」
言うだけで返事を欲しがっていない彰と沈黙を肯定にした英明が各々の行動に移した。
「時に羽山」
黙り続けていた大輔が口を開いたのは、二歩離れただけの処で、
「小早川が小山に既に終わっている無駄なことをさせた理由は何だ? 過去の事例から考えると気遣いだろうと推測されるが、小早川の小山に対する今までの態度から見るに、今いち理解できん」
「気遣いでしょ。実はいい人なのかもしれないし、納得できないんなら北沢の手当てを早く始めたかったからじゃない? 袖から血が滴るぐらい出血してるんだし」
「なるほど。北沢か」
大きく頷く。
着物の左の肩側を脱がせていたときに聞こえた二人の言葉に彰は口端を歪める。その眼が剣呑な光を孕んでいることは疑うべうもない。だが、しかしこいつが先だと思い直し、彰は克己を見た。弱々しくだが笑う顔。紙のように、とまでは言わないが色を失いつつある。傷より上を縛って水をおしみなく注いだ彰が、前よりも本格的(だと思われる)に薬の準備を始める。
「…どうだろう」
「骨と動脈が無事で良かったな。オメデトウ」
そっけない声。それに沸々とした怒りを感じて克己はどうしたものかと思案する。
「すまない。気をつけるといったのに」
とりあえず謝る。
「? いつ言っていたのだ?」
言われた品を持って来た大輔が口をはさむ。
「出かける時に約束していったんだが」
「それはおかしくないか。俺が記憶している北沢の会話は、喜藤を対するものだけだったはずだ。お前たちは話していない」
きっぱりと大輔は断言する。彼は己の記憶力をきちんと評価していた。
「そうだな…。正確には目が合っただけだが、俺たちにはそれで十分なんだ」
穏やかに笑う顔。「なるほど」とそれで納得したらしい大輔が、薬草と新しい着物を置いて戻る。
「おれがアイコンタクトというものか…。実際に行える者たちを見たのは始めてだな。
本人達が黙っている限り他者に伝わることはないのだから、究極の秘め言というわけか。間違いなく同じ言葉が通ずるのならば、これ程便利なことはあるまい。…しかし、羽山の馬に蹴られる前に戻れとはどういうことだ? 言葉から考えるに、“人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ”のことだとは思うが、それと今回の関係は何だと言うのだ?」
ぶつぶつと言う大輔は片手を顎に当てて首をひねった。その様子を見送る克己はつい笑ってしまう。本人は本気でいろいろととっぴなことに不思議がっているのだが、端から見れば面白いことこの上ない。
克己の視界の中に、歯をくいしばっている強張った顔の彰が入っていた。
Next
なんだかんだと言って克己のフォローは忘れない彰。
んでもって、出かけ際にしっかりばっちり愛コンタクト(笑)していたふたり。
克己の腕は果たして…。