ざわ。
外で風に梢が鳴った。
景吾は枕の近くの小テーブルにランプを置き、その灯りで本を読んでいた。家人も、一部の人間を除けば寝静まっている。
ふと何かに気をとられたかのように頁を捲りかけた手を止め、透かしのうつくしい栞を挿んだ。
「こんな時間に何の用だ」
窓を大きく開け放ち、景吾は夜に向かって小さな声で言い放った。明らかに外にいる相手が誰であるのか、わかっている物言いである。
「立ち話もなんだ。入れてくれないか」
こちらもまた、窓が開けられることを疑っていなかったように小声で返してきた。夜に身を潜めている相手の姿は見えないが、声から容易く位置が知れる。そもそもそこにいなくては中に入れない。
「猿じゃねぇんだ。さっさと入れ」
言葉と共に景吾が窓から離れると、ふわりと窓の近くの大木の枝から身軽に窓枠に降り立った。
「夏依」
苦い声で名を呼ばれ、夏依は手土産の果実酒を差し出しつつ謝る。
「すまない。どうにもな、落ち着かなくて」
「落ちつかねぇって、まだ三日あるぜ」
受け取った酒に目を細め、椅子に座るように手振りで伝える。景吾の今度は呆れた声に、そうなんだが、と夏依自身呆れたような苦い声だった。
あの、橘と会ってから既に7日が経った。折り返しを過ぎて、少し。
「昨日までに全員とつなぎをつけただろう?その所為だろうさ。家で親父殿や家人の前ではただの朔宮侯爵家の後継者≠セからかな。息が詰まるのかもしれん。そう、あの人たちは何も知らないからな」
目の前に出してやった、手土産と渡された酒を一気に呷った夏依を見下ろして景吾は酒を注いでやった。
「そういや、誰も知らないんだったか。朔宮は」
そして、自分も一息に呷る。もう一客の椅子に腰掛けるのを待って夏依も景吾に酒を注ぐ。
「今のところ、理想的な跡継ぎだろうさ」
三日後のこの時刻には、そんな姿の彼はいない。
新国王か。国賊か。
「夏依」
視線の先を落とし、悩んでいるかのような夏依の頤を指に引っ掛け自分に向けさせる。アイス・ブルーの眼で青灰の眼を見る。
「きついか」
「何をして?」
「理解者が、身内にいないのは」
躊躇いもなく、言い切った景吾に、だから夏依は笑った。
「俺の身内を言うべきはお前たちであって、朔宮をさすわけじゃない」
勘違いだと、そう笑った。
血縁だというだけだと、その言葉は心に沈めて笑った。
「そうかよ」
「そうだよ」
景吾は頤から手を離し、鼻で笑った。それはおそらく真実だろう。それだけとも思いはしないが。
「なら、もう泣き言はきかねぇからな」
「泣き言、なのか」
「他に何がある。とにかく、付き合ってやるから、飲め。わく」
言葉ほど厳しくない声で景吾は言い、参ったなと言いつつ夏依は目を伏せた。
「景吾」
注いでもらった酒の表面に視線を落とし、静かな笑みを零した。十分ではないランプの灯りに照らされた彼は、やわらかな光に包まれているようだ。
読み止しの本の続きを読もうとして名を呼ばれ、夏依のその笑みを見て、仕様がないと景吾も小さく笑った。
「ありがとう」
「ああ」
「すまない。付き合わせて」
「バァカ」
本をベッドの上に放り投げ、注いだだけになっていた二杯目を一口飲んだ。
「言い直せ」
「ありがとう」
静かに、夏依は杯を飲み干した。
どれだけの時間が経ったのか、それはわからないが、夜半からはじめて夜明けにはまだ程遠い夜中、ドアが遠慮がちにノックされた。
「ああ。開いているよ。神谷」
ドアを開けて迎え入れ、夏依は、すまないと謝罪した。
「構いません。夏依さま。我が家の主人とお酒を過ごされて、多少たりとてお心を落ち着かせるお役に立ちましたか」
夜中の時刻にもきっちりと服を着ている神谷に夏依は頷いた。
「お蔭でな。だが、代わりにお前の主人が潰れてしまったがな」
「それはようございました。主人のことは、ご自分の酒量を見誤った主人の責任にございます。夏依さまがお気になさる必要はございません。
ああ、ベッドに寝かせてくださいましたか」
寝台の上で布団にくるまれ幸せそうな寝顔を晒す景吾に神谷は溜息を一つつき、重かったでしょうに申し訳ございませんと詫びた。
「軽くはなかったが、たったこれだけの距離だ。たいしたことはないさ。俺のほうこそすまなかったな、神谷。そのために起こしてしまったか」
「いえいえ。ちょうど寝ようと思いましたところに主人の夜を憚らない声が聞こえましたので」
とことん、自身が育てた主人を貶す神谷である。
暫し、健やかな寝息を立てる景吾を夏依も神谷も黙って見下ろしていた。
ふと、視線が自分に戻ったのを感じて、夏依は神谷に向き直った。正面から向き合い、夏依は神谷が口を開くのを待つ。
「とうとう、三日後にございますね」
「ああ。お前の主人を巻き込んですまない」
一分の隙もなく、大貴族総領家の執事としての己を、そして何だかんだと言いつつも立派に跡部公爵家を背負っている景吾を主人として仰ぐことを誇りとしている神谷に、夏依は言わなくてはならないと思っていたことを漸く口にした。先ほど、景吾に対したのと同様の言葉を。
跡部公爵家に仕える家人の、一切を取り仕切る矍鑠たる神谷も、流石にその言葉には唖然とした。ついで、夏依がわざわざこの家に来てまで酒を過ごした理由がわかった。
「我が家の主人が巻き込むことがあっても、巻き込まれることはございません。夏依さまもご存知のとおり、務めでもない限り、いえ、務めでも望まないこと、好まないことはなさらない方です。巻き込んだなどと思われる必要はございません。また、この神谷も如何な主人であれど、行いの正しくないと思えば何としても諫めました。
第一夏依さま。現王陛下のなさることに義憤を覚えていたのは景吾さまとて同じこと。下手をすれば景吾さまお一人でなさろうとした挙句、国賊として返り討ちにあっていたこと、間違いないでしょう。
私は、景吾さまと夏依さまの出会いと友情に喜びこそすれ、夏依さまを責めるように感じたことはただの一度もございません」
きっぱりと言い切った神谷である。
「ありがとう」
短くはない沈黙の末、夏依が出せた言葉はそれだけだった。涙さえ感じた。
「だが、しくじれば国賊となるのは俺とでも変わらないと思うが」
「夏依さまが負ける喧嘩をなさる方ではないことも、負ける喧嘩に他人を巻き込むような方ではないことも、十全に存じているつもりです」
完敗だった。
「たった今、負けたよ」
覚えず、夏依は苦笑しながらそう言った。
「これは喧嘩ではございませんので」
澄まして神谷は応え、夏依は今度こそ本当に自身の完敗に苦笑した。意識下で負けを認めている相手に勝とうと思うことが無理なのである。
「神谷」
「はい」
「お前が朔宮に欲しかったよ。だが、朔宮ではお前には役不足だろうな」
「勿体無きお言葉です」
機嫌よく交わしていたふたりの会話が終わると、地の底を這うような声が間に入った。
「てめぇら、人の枕もとでの話はそれで終わりか?アーン?」
間に入れる第三者など、勿論部屋の主の景吾しかいない。
「何だ。潰れたのに起きていたのか、景吾」
夏依は景吾が起きていたことなど気づいていたように飄々としていた。事実、気づいていたのだろう。
「寝たふりをなさって盗み聞きとは行儀の悪い」
神谷は主人の無作法に眉を寄せる。勿論、この御仁も気づいていたに違いない。
「こんな近くで話されて気づかねぇわけねぇだろうが。そもそも潰れてねぇよ」
不機嫌に言い放ち、景吾は体を起こす。あのまま眠れていれば安らかであっただろうというのに。
「何はともあれ。俺はそろそろ朔宮に戻る。邪魔をしたな、景吾。神谷」
言って、夏依はさっさと入ってきたときと同様に窓から外に出てしまった。神谷が見送るように窓際に寄ったが、夏依は既に大木を伝って下りてしまったようだった。黒一色の服を着ていた彼の姿は夜にまぎれて見えない。門番にも気づかれずに出てしまっていることだろう。
全く不必要に気配を消すのが上手い男である。
「景吾さま」
結局寝台から起き出し、座っている景吾に水を渡し、神谷はきちりと彼と向き合った。続きを促すように見られ、神谷は一切合切の遠慮も介錯もなく、言い放つ。
「ご覚悟はよろしいですか」
「誰に聞いている」
「私の主人に」
睨み合っているかのような主従である。
「お前こそ、覚悟はいいのか」
「ないとお思いですか」
「ひとつ、しくじれば、お前が守ってきたこの跡部公爵家も取り潰しだぞ」
脅すように景吾は言う。
「夏依さまを支えるとお決めになられておいて、あの方に片腕と頼まれて、そのような心配をなさいますか。そのようなことをなさいますか。
ご自身の守るべきものを守れないような情けない方を主人に持った覚えは、この神谷にはございませんが。そのようなご覚悟であらせられるのでしたら、今すぐに叩き直して来られてください。夏依さま方にご迷惑です」
ぴしゃりと、神谷は言葉を叩きつける。
「お前、誰の執事だ」
「何方のと、お思いか」
一歩たりとも引かずに言い合う。
「俺がそんな無様なことをするわけねぇだろ」
不愉快そうな、苦い顔の景吾に、神谷はようやっと表情をゆるめて肯いた。
「それでこそ、私の主人です」
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なんだか後半会話ばっかですみません。それもオリキャラとの。ええと、でも。とりあえず、巻き込んだと悩むんじゃないかと思います。勿論、本人が決めたことだとわかっていても、思わずにはいられないな、と。
そのときが近くなれば尚思うと思います。特に、跡部は背負っているものが大きいので。
ある意味蛇足的で、でもたいせつな覚悟の話。何しろ、この章は覚悟なんかとっくの昔にできている状態ですから。いえ、あのメンバーがうだうだと悩んだとも思えませんけど。
言ってしまうと、主人公と跡部以外は失敗しても抜け道があると思うけど、彼にはないので、主人公と跡部。で。
次回より1章クライマックスです。国奪。
ついでに、主人公は自分の(父方の)家に対し、「帰る」という表現はしないひとです。