ウェストファリアの王都、ヴェストファーレンはうつくしい都だ。
南には貿易港があり、大きな帆船や漁をする中型の船が綺羅めく陽光のなか帆をたたんで泊まっている。
港から市街の中心に続く街路には市が出、店が立ち並び、活気が渦巻いている。
陽光を浴びる海はエメラルド・グリーンに輝いていて、高台からはそのさまが見て取れた。
海から見て左手西側から北側に手を伸ばすように山脈が連ねている。険しいこの山脈には獣たちが多く住み、緑は深く、狩猟を生業とする者たちですら裾野から中腹手前くらいまでしか入らない。しからば、街の人間は言うに及ばず、だ。
東側には平野が広がってい、春に秋にと黄金に輝き、豊かな恵みを約束している。
国自体は広大というほどではないが、海・山・平野と揃っており、近隣諸国のなかでも豊かな国力を有している。
また、海の向かいはゆるやかな上り坂になっており、正面には山脈の裾野に白亜の巨大な城が聳えてい、遠目からでもその絢爛たるうつくしさは目を引いた。城を守るように3枚の城壁があり、それを包むように町並みがある。
街の人にとって、その近隣で最もうつくしいと思える城を構えている国の、城を常に目にできる街に住んでいる者も、そうでない者も、この国の民であることを誇りに思っていたものだ。
だが、それも既に過去のことだ。
現国王、そしてその父・先王は華美を好み、贅を愛し、色事・愛人に夢中になり、国を荒らした。先々王や歴代の国王が国を思い貯えた国庫を享楽のために湯水のように使った。
現国王は思い煩うを嫌い、愚言と理解しながら、国王に阿り利を貪るを望む臣下を用い、それと同様に国を心から思う臣下も側に置いた。
彼は政よりも享楽に身を浸すことを選んだ。受け入れる言は自然、諫言より甘言、忠臣より奸臣だった。理解しきったうえで選んだ。
それは将に、愚王としか呼ばれない仕儀だった。
わかっていて選んだのだ。すべて。
まともな家臣や王国に忠実な貴族諸侯が如何にとりなそうと、国民の生活は徐々に厳しくなっていった。
諸外国からの輸入品は国王の下に一度集められるでもなく、貿易のまとめ役を担っている家が国王に阿るでもなく、独自の伝手を確立していたこともあり、特に大きな問題はなかった。だが、国内の商いにおいては、こちらも国王に阿るようなものではないとはいえ、国内のことでは影響を出さないのは不可能だった。農作物の租税は上がり、単価が上がり、量は減った。
生活ができなくなるほど追い詰められたわけではない。けれど、人々は苦しんだ。だが、この国は絶対君主制である。王とは国民にとって神にも等しく、諾々と従った。否、従うしかないのである。従う以外のことを知らないのだ。領民を抱える領主たちは国王に追従するものと、己の財を切り崩し、領民の生活を保護しようとするものに分かれた。
国は豊か、国力はある。それでも、人心は疲弊していた。
人々は倦んでいた。
当然である。国民を守るべき立場にある国王が国民を顧みなかったのだ。
だが、相手は国王である。国王とは敬うものなのだ。彼らは生まれたときからそう教えられて育てられた。彼らの親もその親も、そのまた親たちもだ。彼らには国王、ひいては貴族階級の者たちを敬い、貴族は国王を敬い、立てる。逆らうということは彼らの念頭にはない。その理念が既に生きることの一部だ。
今や、人々は国王を敬い、国王を倦み、疲弊しながら国王に従う。それが彼らの生き方だ。
燦々と煌めく太陽も高く上がり、召使や厩番、庭番など主人が起き出す前から働いている者たちがより活発に働いている頃、一の郭でも王宮に程近い位置に立派な屋敷を構えているその主人が悠然と居間に入ってきた。
「随分とゆっくりしている」
紅茶のカップをソーサーに戻し、夏依は軽く笑った。
空になったカップに新たな紅茶を注いで、客人の側に控えていた、すっと背を伸ばし、きっちりと服を着こなした老紳士が顔を顰めた。
「遅いお目覚めで。景吾さま」
どっかりと夏依の目の前に座った主人に神谷はあからさまに嘆息した。彼は跡部公爵家に長年仕える執事であり、総領子息である景吾の教育係も兼ねていた御仁だ。
年若いが才覚のある、大公爵家の当主に対して当然のように文句を言えるのは、公爵家の中では彼くらいのものだろう。
「お前こそ、うちの執事が何だって客人の側に控えてやがる。文句を言う前に起こしに来い」
些かむっとしたように景吾が神谷に言い放った。これも正しい言い分である。執事の仕事は主人の補佐だ。
「神谷に突っかかるな。俺が起こさずにいいと言ったんだ。まさかこんなに遅いとは思わなかったんでな」
夏依がそう取り成す頃には景吾の前に簡単な軽食と紅茶が出されていた。その割には神谷は相変わらず夏依の側に控えている。跡部公爵家ほどの大公爵家ともなれば執事がやらねばならないことは厖大で、これも仕事のひとつとはいえ、のんびりと侍従している暇はない。特に今は大事を控えているのだ。
「おい」
「最近、忙しいだろう?」
景吾の言葉を遮ってそうは言うが、忙しい身は夏依とて同じである。脇を固める景吾よりも、主体である彼のほうが忙しいはずだ。何しろ信用が何より肝要な人と人とのつながりは人任せにしてはだめだろうと夏依本人がやっているのだ。
そう景吾が言っても夏依は軽く笑う。
「そうでもない。大公爵家の当主で、大貴族の身代を多く抱えている景吾ほどではない。何しろ朔宮はまだ親父殿が当主でいらっしゃるからな」
家の責任と決定はまだあの人のものだ、と笑う。
意識的にゆっくりと含むように言葉を告いだ夏依に景吾は呆れた眼差しを寄越した。次期当主の座が忙しくないなどという世迷言に同じ立場にいたことはある景吾が騙されるはずがない。
「夏依」
「わかった。言い換えよう」
笑みを引かせ、真直ぐに夏依が視線を据えると青灰色の眼は冷たい色を強める。本人の感情に関連なく冷めた色合いを宿すのだ。
「大公爵の当主としてと、貿易商の纏め役としてと、今回のことと。俺の忙しさはお前ほどじゃないさ」
「変わってねぇよ。第一、それでもてめぇも同等に忙しいだろうが」
「そうか?」
飄々といなす夏依に景吾と何故か神谷まで溜息をついた。どんなに忙しくとも忙しいとは言わない青年だ。殊に自分で選び決めたことでは多少――一般とは大きくずれた多少ではあるが――のことは無理を通す。無理をさせまいと思えば、はじめのうちにきちんと仕事を割り振らせるしかない。唯一の救いは彼が自分をよく知っている、ということだろう。
「それで、あの男はお前が登城しても駄目か」
夏依は急に話題を変えたが、これが本題だろうことは容易くわかった。夏依自身が何と言おうとも、彼にゆっくりしている時間がそうないことは儼然たる事実だ。
景吾は皮肉な笑みを口元に浮かべ、ああと言った。
「会うだけは会ったな。暗愚とはいえ、この跡部公爵家を蔑ろにするわけにはいかねぇことだけはわかったんだろ。だが、相変わらずは相変わらずだ。こっちの諫言なんざ聞きやしねぇよ」
用意された軽食をたいらげ、紅茶で喉を潤し、無表情という表情を見せた夏依に言い足した。
「今までも無駄だった。これからも無駄だろう」
「そうか」
低い声だった。そして重い声だった。感情のない、ただ淡々とした声である。
「てめぇは意外と甘いけどな」
「今夜、橘と会う予定だ」
景吾の言葉を遮って夏依は言った。
「前から決めていただろう?次、お前が登城しても無駄なら蹶起する、と。最後の打ち合わせだよ、今日は」
こつり。指先が卓を叩く。
「橘に城の警護の状態と予定を聞いて決めてくる。
俺を甘いと言うがな、景吾」
手を膝の上で組み、口の端を上げてみせた。皮肉を彩った笑み。
「本当に甘かったらな、餓鬼の頃に現王制の打倒を誓うことも、この状況も。万に一つもなかったろうよ」
口調と声と反して、お道化るように手を広げ、肩を竦めてみせた。
「そうかよ」
「ああ。夢物語で終わっていたさ。引き込むことなんてしなかった」
「……そうかもな」
そういうことにしといてやる、とは言わない景吾の本心である。
黙して控えていた神谷に礼を述べ、夏依は立ち上がった。流石にこれ以上の時間はとれない。いくら口では否定していようとも、夏依は非常に忙しいのだ。実際問題として。
「後日、また来る」
小さく景吾に向かって笑いかけ、さっさと玄関に向かう夏依を送り出すように、景吾は眼だけで神谷に示す。自分は行かないのかと同じく眼で責めて来る神谷に早く行けと更に手で示した。
忙しい客人をこれ以上待たせるわけにはいかず、神谷は見送るつもりのない主人に代わり、足早に追う。執事として、また、個人的な好意にしても見送らないなどという選択肢は神谷にはないのだ。
景吾は一人がけ用の主人が座るソファに深く座り込んだまま、睨むように一点に視線を据えている。アイス・ブルーの眼はここにはいない誰かを見ているようだ。神谷が戻って来たのにも気づかずにいた景吾は低く吐き捨てた。
「誰が信じるか、馬鹿が」
基本的に主人に忠実である執事は、口汚く罵りを続ける主人の言葉を咎めず聞かなかったことにし、黙然と控えていた。
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跡部と主人公です。オリキャラの神谷氏。実際にいるだろう跡部家の執事の名前がわかるようならそれに合わせようかなとも思います。
何はともあれ、物語の始まり、始まり。