実に3年ぶりに招かれ会ったとき、それまでがそうであったように自ら玄関に来、扉を開け迎え入れてくれた彼女の足元には愛らしい幼児がいた。
笑顔で再開を喜ぶ彼女に私も恐らくは同じ表情を返し、彼女の案内に従って慣れたリビングに足を運ぶ。幼児は彼女――母親のスカートを摑み前を歩きながらもちらり、ちらりとこちらを振り返った。顔見知りの家人の歓迎に軽く返し、変わらないままあたたかでやさしい家だと思う。
座る定位置となった場所で、寛いで待っていてくださいといわれ、そこに座り待つ姿勢を示せば、幼児は正面にある二人掛けのソファの斜向かいの方に座って、半ば柔らかなソファに沈みながら、にこぉと笑いかけてくる。
その表情がとても愛らしく、笑いかけて手招いて呼ぶと幼児はぱっと表情を更に嬉しげなものに変えて、てとてとと音がしそうな足取りで寄ってきた。側に来た幼児を抱き上げ膝に乗せてやると本当に嬉しそうに歓声を上げ、半身をひねって笑う。その姿はいとおしいの一言に尽きた。
彼女が紅茶のポットとカップとソーサー、ミルクピッチャーに砂糖壺を運んで戻り、私たちの姿に眼を大きくしてやさしく微笑む。その表情は正しく母親だ。
よかったわね、と幼児に言いながら、手ずから淹れてくれた紅茶を差し出した。私の前にはストレートを、彼女自身には砂糖スプーンに半分を溶かしたものを、そして私のカップの隣には砂糖1杯とたっぷりのミルクを混ぜたものを。3歳になったばかりという幼児に、ミルクたっぷりとはいえ紅茶を出す彼女に僅かながら咎めるような視線を向ければ、母となっても少女のような表情を失わない彼女が、今日はその1杯だけ特別なんです、と微笑んだ。特別な日だから、と。
幼児は膝の上から、とくべつぅと楽しそうに言い、テーブルに手を伸ばす。届かない幼児の代わりにソーサーからカップを取ってやり、先に軽く口をつけてたっぷりミルクで幼児でも飲めるあたたかさになっているのを確認してから渡した。両手ではし、と受け取った幼児が、ありがとうございますとカップの中身を零さぬように慎重にカップを持ち、視線をそらせないままに礼を述べる。眼を向けないのは無礼のためではなく、ただただカップに対し慎重なためだ。言葉にしては返さず、だが頭をゆっくりとやさしく撫ぜた。
私からは見えないがどうやら幼児は笑い、甘いミルクティに口をつける。幼児の零した笑い声は、先ほど温度をみるのに一口飲んだミルクティのようにあまやかだった。正面では彼女も左手にソーサー右手にカップを持ち、いとおしそうに私たち、幼児を見て微笑んでいる。私は左手で幼児の体を支え、些か無作法ながらカップを取った。一口飲めば、味も香りも素晴らしい私好みの紅茶だ。
紅茶の味を褒め、改めて互いの健勝を喜んでいると気に入ったようにこくこくとミルクティを飲んでいた幼児がまだ半分ほど入っているカップを置こうとしているのを見て、ソーサーに戻す。幼児は今度は膝の上から私の顔を見上げ、ありがとうございます、とやはりあまやかな声で言った。それに対し、今度は私もどういたしまして、と返す。愛らしく笑う幼児に私の表情も笑んでいるばかりだ。
幼児の体を支える私の腕を摑み、幼児は彼の母を振り返る。
「かあさま」
3歳になったばかりだという幼児は、その歳の子どもとしては随分と流暢に言った。
「この方がぼくのとうさまですか」
「あのときは本当に驚いたし困ったよ」
そう、どう見ても驚いていたとは思えないやさしい声と表情で榊は言った。
その言葉に大人は驚き固まり、そんな大人を幼児はきょときょとと見比べる。
「夏依。その方は違うのよ」
先に元に戻ったのは夏依の母で、彼女はくすくすと笑いながら我が子に間違いを告げる。
「でも、かあさま」
きゅと、榊の腕を摑む夏依の手に力が入る。
「きょうのおきゃくさまは、とってもとってもたいせつなひとなんでしょ」
小首を傾げる夏依に彼女はそうよ、と肯いた。夏依が勘違いをしても仕方がない言い方に呆れ、その意味をきちんと把握している夏依を、独身ではあるが榊は我が子のことのように嬉しく思う。
だが今はそれより。
「朔宮侯爵はまだ、会いに来てはいないのか」
不機嫌を滲ませ、言う。声とは裏腹に夏依を怯えさせないよう、その髪を梳く手はやさしく愛情に溢れている。母親の方を向き直っていた夏依が再び榊を見上げてくるのには、やさしく笑いかけた。
「私には、何度も。ただ、夏依が眠っているときばかりで」
彼女は少しばかり言い難そうにそれだけ言った。眠っているときというのが昼寝か夜なのか、それとも嘘か。彼女を朔宮が愛していることを榊は疑ったことはないが、だが、自分の息子に向けられているはずのそれはどうであろうか、と榊は眉を顰めた。
「それじゃあ」
大人たちのどこか張り詰めた空気を幼児は感じたのだろう。榊の腕を揺らして夏依は口を開く。
「とうさまでないおきゃくさまは?」
だれ?
と、夏依は首を傾げさせた。榊を見上げる眼差しに、いとおしく思い、榊は目元を和らげる。今まで特に自身が子ども好きであると思ったことはなし、彼女の子どもだからとてそこまで思い入れがあるわけではないが、夏依のことはひどくいとおしい存在に思えた。
先ほど初めて会ったばかりであるというのに、こんなにも一心に慕う曇りのない眼と顔はひどく得難く、たいせつなものであると榊は思った。
「夏依。その方はね、榊公爵と仰るのよ」
自分を膝に乗せ、やさしく母親がしてくれるようなあたたかで嬉しい気持ちをくれる相手の名を、夏依はまだあまりよくわからないまま繰り返した。
「さかきこうしゃく」
「随分と、他人行儀だ」
「たにん…」
「だって、太郎お小兄さま」
母がいった名を夏依も言ってみる。小さく口のなかで転がすように。
「たろうおにいさま」
母と何事かを言っている榊の腕を、先ほど自分に向いてもらったようにして、見下ろす茶色の目を見て呼んだ。
「たろうおにいさま」
二度。あまやかな幼児の声を唇に乗せる。
夏依がそう呼ぶと榊はいとおしげに目を細めた。膝に乗せていた夏依を自分に寄り掛かるように引き寄せてやり、夏依の体を支えるのとは逆の手がゆっくりと頭を撫ぜる。
夏依はその表情がいとおしげなものだとは知らないまま、与えられる眼差しも表情も、頭を撫ぜてくれる手と体をしっかりと支えてくれる手と、寄り掛かっている母とは違い広くて安心できる胸がとてもとても嬉しくて、にっこりと笑った。
母が嬉しいと笑い返してくれる笑顔で。
「いいね。夏依。もう一度?」
やさしげな言葉と笑顔の榊に夏依は言った。
「たろうおにいさま」
彼女がふたりの正面で驚いた表情の後こちらもにっこりと笑ったのだが、生憎と夏依と榊が気づいたのはそのもう少し後だった。
「覚えていますよ、そのときも、そのあとのも」
羞恥で顔を赤くして、それでも夏依は今ではあまりしなくなった笑顔と幼い自分が呼んでいた名を唇に乗せた。
「太郎お小兄さま」
あまいミルクティをソーサーに戻して。
Fin
そんなわけで榊と主人公が初めて出会ったときのことでした。
ついでに主人公が「榊小父さま」と呼ぶようになったのは主人公が6,7歳のときです。不二が親しいけど年上の他人を小父さんと呼ぶのを聞いて変えました。実はそれは主人公も榊もちょっと不満だったりしました。(今決めましたが本気です。本設定です)
なので、父方に引き取られるときには既に「太郎小父さま」です。朔宮の側の人間がいたときにそう呼んだことはありませんが。
この思い出話をしているのは主人公が十八歳以上のときです。詳しくは決めていないので十八歳以上なら即位後ってことでも。(お好きにどうぞ)
それよりもアレですよ。これで榊ルートエンドになるんだとすると、榊の紫の上計画って感じですね。基礎知識一般・礼節・語学は榊仕込みなわけですし。引き取られることがなければそのまま榊が教えていたでしょうしね。
思い出のほうは主人公が三歳、榊が二十三歳です。二十歳差!